第8話
◆
俺は咳き込む、というより、滝のように口から血を吐いた。
嗜虐的な吸血鬼の、底知れない深さのある瞳が目の前にある。
俺の手指が痙攣し、ナイフを取り落とす。金属が床を打つ甲高い音が、やけにはっきりと聞こえた。
血飛沫が吸血鬼の頬を焼き、煩しげに奴はとどめを刺しに来た。
「第三封印」
俺の声は濁っていたが、声は声だ。
「解除」
ナイフをひねろうとした吸血鬼の動きが、瞬き一つにも足りない時間、停止する。
理由は簡単だ。
俺の胸を刺し貫いているナイフが動かず、俺の体もやはり、動かなかったからだ。
奴がその理由を知った時には、すべては遅い。
目の前にいる吸血鬼に俺は抱きつく。
もがく間も与えず、俺を中心に青い波濤が巻き起こる。
吸血鬼の絶叫は、あっけないほど短かかった。
青い炎に包まれた服が床に落ち、炎はやがて消えた。
吸血鬼は痕跡ひとつ残さず、消えていた。灰さえもが焼き尽くされる、まさに地獄の業火だっただろう。
思わず俺は声をあげそうになり、飲み込むが、それでも唇の間から声未満の音が漏れた。
先ほどとは比べ物にならない痛み。全身に電流が流れているようだ。間断なく、徐々に強くなる。自分自身の力で自分自身の肉体が崩壊していく痛みだ。
力を封印する前に、ナイフを抜かなければ、即死する。
癒着しかかっているナイフを無理矢理に引き抜くと、床に血の飛沫が一筋、赤い線を描いた。
ナイフを投げ捨て、呼吸を整える。肺が不規則に痙攣し、ただの呼吸さえもがぎこちない。ただ、その間に胸の致命傷は治癒していく。腹部もだ。傷口が蠢く感触は何度、実際に体験しても慣れない。吐き気がする。
あまり時間をかけると、V2MMに殺されかねない。
「第一、第二、第三、再封印」
口の中が血で粘つくが、舌はちゃんと機能した。声と同時に痛みは消えるが、今度は別種の痛みが来る。肉体の単純な損傷の痛みだ。
全身の筋肉がダメージを負っているし、骨も部分的にやられているようだ。内臓も危険な状態。というか、立っているのもきつい。
ゆっくりと床に腰を下ろし、口腔に残っている血を吐き捨てる。
一度、目を閉じて呼吸を整えてから、部屋にいるもう一人の吸血鬼の方を見た。
「だいぶビビっているようだな」
そう声をかけてやるが、ガラガラな声しか出ないし、死人のように頼りないか細い声だった。
娘は黙ってしゃがみ込んでいたのが、這うようにしてこちらへ来た。そして恐る恐るといったように、俺が滅ぼした吸血鬼の上着が落ちているのを遠回りして、俺のそばへやってくる。
「なんか、見間違いじゃなければ、ナイフで胸を刺されたようだったけど」
見間違いも何も、俺の服はズタズタで、たっぷりと血を含んでいる。
どうもこの娘は目の前で起こったことを、事実として受け入れるのを拒否したいようだ。
まぁ、それもそうか。
たった今、この狭い部屋で起こったことは、超常現象の盛り合わせのようなものだったわけだし、この娘はほんの一日前まで、日常の中にいたのだ。
何よりも尊く、何よりも平凡な、当たり前な日常の中に。
「俺は疲れた」
反射的にそんな言葉を発していた。
疲れた、か。
俺は一体、何に疲れているんだろう。
この娘を護送することか。
この娘を襲ってくる吸血鬼を撃退することか。
それとも、もっと長い長い、今までも、これからも、終わることなく連続する吸血鬼との、果てしない戦いに疲れているのだろうか。
考えても仕方ない。
俺にもやはり、平穏な日々は残されていない。
そもそも最初からなかったのだ。人間と吸血鬼の間に生まれた時、最初の最初から、俺はこんな日々を生きるしかなかった。
不満があるとかないではない。
逃げ出したいとか、投げ出したいとかでもない。
始発点から道筋が決まっていても、選んだのは俺だ。
戦うこと。
使命を果たすこと。
命を使いかたを選べるのは、人間も、吸血鬼も、その混血でも、同じだ。
正しく生きるも、悪の道を進むも、どっちつかずの迷いの中に佇むのも、全てが自由。どれを選んでもいい自由が、誰もにある。
「少し、休む」
俺は胸の激痛がだいぶ和らいだのを感じながら、ゆっくりと立ち上がろうとした。せめて、壁際へ行こう、という程度だった。
しかしまだ早かったようだ。
よろめき、膝を折りそうになる。
そこを素早く立ち上がった娘が、抱えるようにして支えた。
水分が蒸発するような音がした。俺の血に触れた娘の皮膚が焼けているのだ。
「離れていろ」
そういったが、娘は離れなかった。
抱えられるようにして、俺は壁にたどり着き、背中を預けて座り込んだ。
「ま、すぐに治るだろうし」
言いながら、娘は俺の血に触れた自分の掌を眺めている。
吸血鬼っていうのは便利なものだ。俺もその恩恵に預かっているから、他人事ではないが、俺はその正の側面だけを享受している。
この娘はこれから、日の光を見ることはなく、銀に触れることもできず、血を啜らなければ生きていけない。もしかしたら、世界が滅びるまで死ぬことができないかもしれない。
選べばいい。
この娘にはこの娘の人生があり、世界があるのだから。
日の光とは無縁でも、静かな、落ち着いた世界を望めば、それが与えられる。
人ではないとしても、幸せはあるだろう。
死ねないとしても、生きてはいる。
俺はゆっくりと呼吸をして、V2MMの恒常的な作用で体が楽になっていくのを感じながら、目を閉じた。
「ちょっと、死なないでよ」
声に目を開けて、睨みつけてやる。
「死なない」
「ここであんたが眠っちゃうと、私は心細いのだけど?」
「誰もここへは来ない。しばらくは」
不安にさせないでよ、と娘が俺の横に座り込み、服の袖を引っ張ると、それで俺の手に触れた。
「血液に触れなければ、火傷もしない」
「あ、そう」
娘が袖を元に戻し、俺の手に触れた。
触れてもどちらも傷つくことはない。
両者が同じ立場に立っているのを示すように。
「眠る。何かあれば、すぐ起きる」
説明する必要もなかったが、そんないらないことを言ってしまうあたり、俺もだいぶ疲れているようだ。
本当に、疲れた。
娘は無言。
空調がかすかに音を立てる以外は、人の喧騒も、街の喧騒も、まるでしない。
滅亡寸前の世界の地下シェルター、ってところだ。
ぐっと娘の手が強く俺の手を握る。
何も言わないことにして、今度こそ俺は意識の緊張を解いていった。
ぐっすりと眠ることなどできないが、安らぎに近づくことはできる。
浅い眠りでも、眠りは俺を束の間、何もかもから解放してくれた。
(続く)
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