第1話 己誰何
神暦4502年・統王暦2975年 6月13日
大メリエラ都市ヒスロン東部(旧ラートルー地区)・王立第4病院特別病棟
その男が目を覚ましたのは、世界にとって秋という季節。自然が赤や黄に色付き多くの恵みを人々にもたらしてくれる、そんな時期だった。
建物の周りが鮮やかに彩っているというのに、その男が眠っている部屋はひたすら白かった。男が眠る寝台や掛けられている寝具、脇にあった椅子や机も。その男自体の着ている服まで白い。
その男はゆっくりと左目を開けていった。
「…………? ……???」
男がまず思った事は、部屋の白さでも自らが置かれた状況でもない。
自分が本来目が覚めてすぐ行っている事をしていない、出来ていないという不甲斐無さだった。
そこまで考えてようやく男は、自分に対して考えを向け始めた。
「じぶん……? …………オ、レ?」
口に出してみて自らをそう呼んでいたと気付く。その時点で男には自分に欠けているものが少しだけ埋まった感覚があった。具体的には言葉や物の名前といった生活する上で最低限の知識である。
「ここは? オレは一体……。オレ、だって? オレは……何だ?」
自分には記憶が無いということに男は気付いた。
だというのに男は特に混乱し取り乱す事もなく、冷静に探るような思考を繰り返すだけだった。
そして一つ思い至る。以前の自分もこんな風であったと。
まだ思い出せずに出来ていない
その時、部屋のどこからか「ピルル、ピルル」という高い連続音が鳴った。
男はその音に対して何となく、自然の音とは違うように感じた。以前の自分も聞いた事が無いのかもしれない、と。
すぐにもう一度「ピルル、ピルル」という連続音が鳴ってから、今度は別の音が聞こえてきた。
「失礼しま~す」
人の、女性の声……のように聞こえたが、先程の連続音のように自然の音ではないようにも思えた。それでいて、何となく聞いた事のあるような声の状態、という気もしていた。
その男は一先ず声の状態については思考の脇に置くことにして、声のした方に顔を向ける。
すると、シューという音を立てながら部屋の扉が開く。そこから白い服装を着込んだ女性が入ってきた。
男はその女性が扉を開ける動作をしていない事に驚いていた。彼の中の常識にはない物だったのかもしれない。
そして男は女性の様子を窺う。
年齢は30代くらいだろうか?短めの黒髪が清潔な感じを出している。
女性はその男と目が合うと、ぱあっと顔を綻ばせながら近づいていった。
「あらまあ! お目覚めになったんですね~。気分はいかがですか~?」
「え、と……」
どう返せばいいのか分からず、その男は声を詰まらせた。
女性はそんな男の内心に気付かず言葉を続ける。やや丸みのある体型と、それに似合うふんわりと柔らかな雰囲気を感じさせるその女性は、今の男にとって記憶にない誰かを思い起こさせるような気がした。
「悪かったら言ってくださいね~。何せ、1週間も眠ったままでしたから~」
「1週間……10日……?」
「はい~。そうなんですよ~」
男は今ある知識の中から、こうだったはず、という答えを疑問の形で返してみた。
果たしてそれは正解だったので、男はまた一つ安堵することが出来た。
どうやら、彼の中の常識はそれなりに信頼できるものであるらしい。
「今、先生を呼びますね~。あ、そうそう。念の為、患者様のお名前を仰って頂けますか?」
その問いかけに、男は首を横に振る他無かった。
「……分からない」
「あー……あら~、困りましたねえ。えっとこれから医師の先生が来ますので、詳しい話はそこでなされるかと思います。お待ちくださいね」
あまり困ってないような声の感じを出しつつ、女性は右耳を右手で抑える。そして男の方に向けず何やら喋り始めた。
「看護のアマラ・バリオスです。特別S室の患者様、目を覚まされました。健康状態は良好。会話も普通にできます。ですが記憶に混濁、もしくは喪失障害の兆候が見られます。至急、担当のマーティン先生に連絡をお願いします。それと……」
先程の柔らかな雰囲気とはまるで違う軽快な様子を見せたアマラという女性を、男は感心するように眺める。
そして耳を抑えながら、誰にともなく喋る様子にまた何がしかの既視感を覚えた。この感覚は身に覚えがあるからだろうか、と男は思考する。
そうしている内に用事が済んだのだろう、アマラはまたふんわりと笑って「お待ちくださいね~」と男に言った。
その後、男にとってはまた見知らぬ箱のようなものを眺めて何やら呟いている。手元で記録のようなものを書いている仕草をしているので、あれも仕事の内なのだろうと男は思うことにした。
待っている間、男は周りの観察をする。
窓の外を見ると、そこは一面空しか見えない。どうやらこの部屋は結構な高さにあるらしい。
広さは一人が寝起きする場所としては、過剰とも言えるほどの広さ。
寝台と寝具はとても柔らかくとても寝心地が良さそうな造り。
他の物にしてもなんとなく上質というか高級な感じがする。
先程のアマラの言葉にあった“特別S室”の意味も加えて考えれば、どうやら自分は何らかの理由で特別扱いされている、と男は現状に当たりを付けた。
そして右側の壁に鏡が備え付けてあったので自分の観察もする。顔の造形は……普通なのではないかと男は思う。記憶の無い状態で美醜を測るのはどうかとも思っていたが。
髪は銀色で癖は無く、長さは目が少し隠れる程度。開いている左目は鮮やかな碧色をしていた。
そこまで考えて男は違和感を覚える。何故自分は左目しか開けていないのか、と。
鏡を見るに怪我をしているわけではない。
そして男自身の感覚でしかないが、この
だが同時にこの
理由を考えたところで、記憶が無い事と関係があるのだろう、くらいの推測しか今の男には立てられない。なので、右目に関してはなるべく考えないようにする、と一旦思考を放棄した。
次に体の状態を確かめようとしたが、男が力を入れようとしてもほとんど入らず、首を動かすくらいしかできない。無理に入れようとすると「ピピピピピ」という連続音が寝台から鳴っていた。
その音に反応したアマラが男に話しかける。
「ごめんなさいね~。体動かしたいでしょうけど、理由があって今動かせないようにしてるんです~。
その辺も先生が説明してくれますから~。
はあ~。しかし先生、来るのが遅いですね~……」
アマラは待ち人に呆れている様子だ。溜息が出ている辺り、どうやら対象の人物に苦労させられているらしい。その男としては何となく労わってやりたいような気持ちが湧いていた。
それからしばらくすると再び室内に「ピルル、ピルル」と高い音が鳴った。
その音に反応したアマラが扉に向かって「はい、どうぞ~」と話しかける。
すると先程アマラが入ってきたように、今度は一人の男性が入室しようとしていたが。
「えー、失礼します、よ?」
どこにも隠れる所など無いというのに、何故か入室してきた男性はコソコソと身を縮こませながら中の様子を窺っている。
「マ・ー・ティ・ン・先・生? 遅いですよ」
「すっ、すいません。その何分、外来の方が立て込んでいたものでして」
「先生はあくまでこの病棟が担当じゃないですか。
他部署の手伝いは程々にしてくださいって前から言ってますよね?」
「ア、ハハ。いやその面目ない」
アマラが話している男性こそ、マーティンなる医師なのだろう。
責めるようなアマラの物言いに対して、わたわたと四角の眼鏡を直したり、頭を掻いたりしながら言い訳をしていた。細身な体型に彼もまた白い衣を着ている。
マーティンは男の方に向いた。心なしか先程より背をまっすぐ伸ばしている。
頭部周りを見ると細目の優し気な容貌で金髪を後ろで纏めていた。そして何より特徴的な長い耳。あれは確か、と男が思考しようとする前に話が始まった。
「初めまして。貴方様の担当をさせて頂いております。
王立第4病院医師のマーティン・ラーベと申します」
先程までの情けない姿を微塵にも感じさせることの無い所作でマーティン医師はその男に礼をする。
記憶が無くともそれが目上の人間に対するだということくらいはその男にも分かった。
だが初対面のはずなのにそこまでされる理由が分からないので、結果情けない返答をしてしまうことになった。
「はあ……その初めまして?
オレは、気が付いたらここに寝かされてた男、かな」
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