名前の中のストーリー

東雲佑

物語は名前に内包されている。


 我が家のファミリー構成員には一頭の猫が含まれる。シャムの血を強く感じさせる白猫で、頬のラインをはじめとした毛色にところどころ茶色が点在している。

 どこか食パンを想起させるカラーリングのこの猫を、ファミリーの残る三人は特に敬意などは込めずに『先生』とお呼びしている。


 とはいえ、先生はそのはじめから先生という名であったわけではない。

 話せば長くなるかもしれないが、今日はその長くなる話をお聞かせしたいのだ。



   1



 食パン模様の子猫が我が家にやってきたのは一年前の年末だった。

 帰宅した僕をコタツで出迎えたのは妻だけでなく、妻と、そして彼女の膝の上で眠っているまだ名もなき小さな毛玉だった。


「その猫、なに?」


 僕が尋ねると(当然の問いである)、知りたい? と妻は問い返す。

 もちろん僕は、知りたい、と応じた。


「要望は了解。でも教えない。だって、猫との出会いはいつもミステリー。そういうものだから」


 彼女は得意げな口調でそう言い放つと、いとも楽しげににんまり笑った。

 実際、この日我が家に登場した猫はいくつものミステリーを所有していた。

 僕が出かけていたのは家から徒歩2分という超至近のコンビニで、わずか10分足らずの不在のうちに彼は我が家に(そして我が妻の膝の上に)上がり込んでいたのだ。

 それにシャム種の猫がいくら人馴れしやすい(らしい)とはいえ、かすかな寝息をたてる子猫はあまりにも妻に馴染んでいた。


「猫との出会いはいつもミステリー」


 今度は呪文を唱えるように、もう一度妻が言う。

 それと同時に、食パン柄の子猫が目を覚まして、ニャアン、と鳴いた。


 そのようにして彼は我が家族の一員となった。



   2



 彼という猫はその後も様々なミステリーを(中にはファンタジーに片足を突っ込んだものさえある)我々家族に提供してくれるのだが、それについて語り出すとただでさえ長い話がいよいよ大長編になってしまうので今回は控える。

 それはまた、別の機会にお聞かせしたい。


 さて、これもまた僕にとっては予想外の展開だったのだが、猫の命名は僕に一任された(当然妻が名付けるものと思っていたのだ)。


「作家さんなんだから、素敵な名前をつけてあげてね」


 妻はそう言ったが、僕は出版している自作の登場人物にすらほとんど名前をつけていない。名前らしい名前を持つのは主人公とヒロインくらいで、あとは肩書きや通称などをそのまま名前の代替としてしまっている。


 降って湧いた重責にまるまる一日悩み抜いた僕は、結局敬愛する古川日出男先生にあやかって『ヒデオ』という名前を子猫に与えた。


 これが大きな過失であったことはすぐに痛感する。


 なにしろ僕の古川先生への敬意はほとんど崇拝に等しい。

 人生で最も感動した三冊をあげれば、大槻ケンヂ『新興宗教オモイデ教』、ロン・グリーンバーグ『シュガーハイツのあの頃』、そして古川日出男『13』となるのだが、同じ作者の作品を三冊あげていいなら全部古川先生の作品となる。

 出版された拙著には古川日出男作品へのオマージュがこれでもかと盛り込まれているし、己のペンネームすら古川先生へのリスペクトから考えたくらいなのだ。


 その僕が、猫とはいえ古川先生の名を呼び捨てにできるだろうか? 


「おいヒデオ、こっちおいで」

 とか、

「トイレ覚えたんだな、えらいぞヒデオ」

 とか、

「ヒデオ、この味どうかしら?」

 とか、言えるだろうか?


 言えるわけがないのだ。呼べるわけが。(文脈に求められた結果この文章の中でも二回ほど古川先生を敬称略で呼んでいるが、いま、クリスチャンでもないのに日曜礼拝に出掛けて懺悔したい気分に襲われている)



   3



 自分で与えた名前に自分で縛られてまさしくこれこそ自縄自縛というものだが、とにかく、僕は新たな家族とスムーズな関係を築けなくなった。

 猫がかわいくなかったのかといえば、それは違う。食パン柄の子猫はむしろものすごくかわいくて、父や妻がそうしているように僕だってかわいがりたかった。かわいがってやりたかった。


 だけど、名前が呼べないのだ。どうかわいがればいい?

 だって、名前が言えないのだ。どう話しかければいい?


 敬愛する作家の名を持つ猫は、こうして我が家における名前を呼んではいけないあの猫になった。僕限定で。


 僕と猫、一人と一頭のあいだはその後もギクシャクし続ける。し続けていく。

 ギクシャクといえば、シャクなことは僕のこの煩悶に家族の誰一人として気づいてくれなかったことである。

 犬派を公言していた父は変わり身も早く宗旨替えをし、我が家の猫派司祭である妻はそんな義父とさらに仲良くなり、挙げ句の果てには二人揃って僕にも教団シンボルとの触れ合いを迫ってくる。

 そしてあろうことか、肝心の猫もまた、隙あればつれないこの僕にじゃれつこうとしてくる。本当に、嫌気がさすほどかわいくて人懐っこい猫なのだ。

 このように、猫を一切無視してしまうことは状況と環境が許さなかった。

 呼び捨てにできないならば敬称をつければいい、そんな発想にはもちろん初期の段階で至ったが、無知で無力でだけどかわいい子猫をさんづけで呼ぶ大の男を妻や父はどんな目で見るか……それを思ったとき、僕の退路はまたも断たれた。

 改名は最初から論外だ。人の都合で動物の名前を好き勝手に変えてしまうなんて、そんなのはあまりにも人間的すぎるエゴだ。

 だからつまり、もはや八方塞がりだった。



   4



 そうした折、『先生』という名は福音のようにもたらされた。

 最初に猫をそう呼んだのは妻だった。


「……先生?」

「そ。だってフルカワヒデオさんて、あなたの先生でしょ?」


 尊敬する作家というよりは教師を指すようなニュアンスで妻は『先生』という言葉を使った。

 僕は特にそれを正すことはせず(間違いではない。僕という作家にとって古川先生はまさに教師であり親なのだ)、代わりに、妻がそうしたのと同じように『先生』と猫を呼んでみた。

 

 瞬間、大袈裟でなく解き放たれた気がした。


 無論『先生』という呼び方には『ヒデオ』と呼び捨てにする後ろめたさは少しもなく、また妙にへりくだった調子がそこにこもることもなかった。

 僕の意識の中で、『先生』は『ヒデオ』への敬称ではなく、『ヒデオ』とは切り離され独立している一個の名前として了解されたようだった。確かな経緯を経た為か、改名に対しての罪悪感も皆無だった。


 福音。まさしくそれは福音だった。

 僕を苦しめていた深刻でくだらない悩みは一挙にして解消されたのだ。


 そのようにして僕は猫を先生と呼ぶようになった。

 僕だけではない。僕が先生と呼ぶようになってからすぐ、父と妻もまた同じ名で猫を呼ぶようになった。


 そのようにして先生は先生となったのだ。



 ここまで書いて、ふと思う。

 我々は物語の中でたくさんのキャラクターを登場させ、たくさんの彼らにさまざまな名前を与える。

 だからつまり、物語の中にはたくさんの名前がある。


 だけど、その逆だってまたあるのだ。たとえば今回の先生という名前は、名前それ自体が物語を所有する。物語は名前に内包されている。


 名前の中の物語。



   ※



 ところで、ヒデオという名前に慣れ親しんでいた父と妻までもがどうしてすぐ猫を先生と呼ぶようになったのだろう。ヒデオという名前は、すでに完全な過去となっている。

 僕がそれを尋ねると、二人は笑いながらこう答えた。


「いくらあなたの尊敬する先生でも」

「ヒデオってのは男の名前だからなあ」

 

 食パン模様の我が家の先生は、どうやら女流作家だったらしい。


 

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名前の中のストーリー 東雲佑 @tasuku_shinonome

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