第4話 隠遁のダイアン
「遅い」
その一言は雷のようにいきなり降って来た。
地下鉄から地上に続く階段を駆け上がり、八十階建てのビルの最上階をアンジュは目指して帝都総合ギルドの入り口を潜った。
ドアマンのおじさんは夏だというのに、ジャケットにスラックス、縞模様のネクタイをきちんと締めている。
黒人の恰幅のいい彼は、
「おはよう、アンジュさん。ボスもう来てるよ」
と優しくもアンジュにとっては悲惨な未来を予感させる挨拶をくれた。
「ひえっ!? まだ始業前……来てる、の?」
「ええ、頑張って」
「最悪だわ……転送魔導、は――無理か」
「ダメだねえ、ここ。ビルの中は一切の魔法が使えないから。魔導端末を通して人工女神に許可を得なきゃ」
「それは降りなさそう。仕方ないから、エレベーターで行くわ」
「まあ、大丈夫だよ。たぶんね」
にこやかに微笑んでドアは閉められた。
最悪だ、会議は九時からのはずなのに。あの朝に弱いヘッドギルマス・ダイアン様が自分より先に入庁しているなんて想像だにしがたい。
見習いから含めて十年。
仕えて来た間も彼女が八時以前に入庁した実績なんて一度もなかったことだ。
「……最悪だわ」
最上階に直通の職員専用エレベーターに駆け込んで数分。ようやく扉が開いたと思ったら、やつはそこにいた……。
そして、あのぞっとするように冷たい悪魔のような一声が、アンジュよりも背の高いダイアンの口から降り注ぐ。
「遅い。何やってたの? 朝は六時に来なさいって言ったでしょう」
「はえ、い……言われましたっけ?」
「言ったわよ。その獣人よりも聞こえてない耳で何聞いてるの、あなた」
「いえ、それは――メモ、も。アミュエラは何も言ってなかったし」
普段から備忘録代わりにしている人工女神にそれとなく責任をなすりつける。
腕の端末が自分は悪くないと、アミュエラの否定を示すように一瞬光ったが、アンジュはそれを見て見ぬふりをする。
ここで魔導端末を開こうものなら、それこそアミュエラ自身の無罪を証明する録音や録画が溢れるように流されて事態の収拾がつかなくなるからだ。
「それはそうよ。あなたには言ってないもの」
「……え?」
唖然とするアンジュに向かい、銀髪をショートボブにしたダイアンは桃色の瞳で不敵に笑って見せた。
まるで正解を知らない子供にちょっかいを仕掛ける猫のような感じだ。
「あなたには言ってないの。それより、あるの無いの」
「あ、あります! ハルズのベーコンサンド!」
「なら――いいわ」
はいっ、と差し出した包みが一つと封のされたコーヒーカップを受け取ると、ダイアンは俄然、上機嫌になる。
笑顔のついでにその場で包みを解くと、お腹が空きすぎて死にそうだったわ、なんてぼやきながら食べ始めるのだから、相当我慢の限界だったのだとアンジュは推測する。
いつもはこんなことはないからだ。
少なくとも――エレベーターホールでいきなり朝食を食べるような真似はしないはずだ。
通常運行のダイアン様なら。
アンジュは眠りについた獅子を起こさないように言葉を選びながら、質問をする。
「ダイアン様?」
「何? 上げないわよ?」
「そんな食べかけ要りませんから……その、誰に申し付けられたんですか? お姉さまたち、誰もお越しになられていないようなんですけど……」
ヘッドギルマスはうーん、と考え口の中に押し込めたモノを咀嚼すると、コーヒーでそれを流し込んで一息ついたらしい。
えーとね、と唇に指先を当てて眉根を寄せて考え込んでから、思い出したように叫んだ。
「ルビリン! だったかしら? 昨夜の飲み会の時よ」
「ルビー……お姉さま?」
昨夜の飲み会。
期末決算が上場の結果で利益も宜しい、とダイアンが微笑んでいた。経理部長と共に、高級酒をボトルごと購入して何本も開けていたのが記憶の片隅から発掘されてきた。
ああ、思い出した。
あのお酒、高原オオカミの獣人の帝国原産の古代米を使ったアルコール度数の高すぎるやつだ。
わたし、あれに撃沈されたんだ……。そう思い出すと恥ずかしさで顔から火が出そうだった。
そして同様に撃沈されたお姉さま方の顔が、アンジュの脳裏に次々と思い浮かぶ。
ルビーお姉さまは一番最初の方に意識を失って、会場の隅っこで椅子に寝かされていたはず。
「そう、ルビーに。教えたのよね、でもあの子ずっと寝てたのよ。旦那様が迎えにいらしてたけど。伝言、聞いてない?」
ふるふる、とアンジュは首を振る。
自分は悪くない。この伝達ミスは、間違いなく人為的なミスだ。
そして……。
「ルビーお姉さまはダイアン様のお酒で意識を失ったとこまでは、わたしの記憶にもおぼろげにありますけど」
「あら、そうだったかしら? どうでもいいわ。朝食は食べれたし」
さあ、働くわよ?
不機嫌からご機嫌に変わった老齢の才女、もとい帝都総合ギルドの最高権力者は、二十代の若者のような高いヒールでかつかつと床を支配しながら歩き出す。
その途中で、まだ来たばかりだったのだろう。
手にしていたバッグと薄いカーディガンをドサッとアンジュのデスクの上に放り出して執務室のドアの向こうに消えた。
アンジュはため息を一つ。
いちもなら筆頭書記官のルビリンがやられる蛮行だが、今日は自分しかいない。
我慢だ。
「あーあ、また放り出して行くんだから。たまには自分で……」
「自分でやったらあなたたちの仕事がなくなるでしょ!」
「ひいっ」
専用の分厚い赤樫製の扉を閉めて姿を消すまでを確認してからぼやいたのに。
ダイアンは獣人の中でも耳が良いとされている猫耳族の生まれ変わりかもしれなかった。
普段は十数人が世話しなく叫んだり悲鳴を挙げているこの秘書室も、いまはたった二人だけの危険な密室だ。
よく通る低い声で聞こえてるから、と鼻を鳴らして忠告するダイアンは、まさしく悪魔のごときヘッドギルドマスターだった。
アンジュはどこかに隠しカメラのようなものがあるのではないかと勘繰りながら、バッグとカーディガンをダイアン専用の衣装棚にしまい込むと、いつものように肘から先ほどの大きさのある魔導端末を持ってダイアンの執務室の扉をノックする。
どうぞ、と一言返事があり、開けた先には誰もいない無人の部屋が彼女を待っていた。
「あれ? ダイアン、様……?」
正面に執務机があり、その奥は窓になっていて朝陽が差し込んで眩しさに目を閉じそうになる。
どこを見ても影も形もないその部屋はまさしく密室で出入口はそこの扉しかないのに。
どこから出て行ったのか。
疑問符を顔に浮かべながら、アンジュはその日一日の行動予定表を端末に表示すると、机の上の定位置にそれを置いた。
上から眺めると、そこには『レンタル事業発足会』と一文だけ表示されている。
いよいよするんだ。
ダイアンとアンジュを含んだ数名の部下だけで内々にやってきた特級技巧の貸与が、ようやく民間向けの事業として陽の目を見るのだ。
胸に密やかな高揚感を感じながら、アンジュは成功を祈っていた。
しかし――この部屋の主はどこに行ったのだろう?
室内には、ダイアンの気配すら感じられない。
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