第16話:さまざまな多様性の在り方 ①

現在、日本では“多様性”を求める傾向にあるが、まだ海外などから見るとそこまで大きな動きにはなっていない。


 しかし、これらの多様性を容認するためにはかなりの時間が必要になることは十分に予見できる事柄として認識している。


なぜなら、日本における多様性は世界における多様性とは少し認識や価値観、社会的地位などがかけ離れており、これが社会的差別や偏見を引き起こしているような気がしてならない。


 まず、私が問題視しているのは“性に関する法的認識”だ。これは先進国の中で最も遅滞しているにも関わらず、問題解決にかなりの時間が掛かっている問題の1つであり、決定機関の解決に対する問題意識の薄さが露呈しつつある。


私がこれを問題だと思う理由として“性の平等と公平”が挙げられる。今はさまざまな人が日本には暮らしている。例えば、LGBTQ+の人たちやどちらの性にも該当しない無性の人たちなど特定の性を認識しない人もいる。しかし、これらの問題がこのような人たちの居場所を失わせ、同時に社会に対する不信感が表れてきているように感じる。そもそも、日本というのは1つの型や基準に当てはめて物事を判断するため、柔軟性に欠ける部分が多く、法律も適宜改定するわけではないため、社会的価値観を適宜見直すことは少ないし、社会の声を聞くと“法律で決められているから仕方なく”や“会社のルールなので”といったように法律など上層部の決めた法律やルールを組織や社会では守ろうとするのだ。


 その結果、ある会社は表記を撤廃し、ある会社は表記を継続するという社会的整合性の取れない事態に発展しているのだ。


 私は書類や履歴書、公的証明書などに記載される性表記を廃止し、その代わりに名前などで本人確認することが大事だと思う。


 一方で課題も山積だ。なぜなら、国会でも問題視された“えん罪”や“心の性が男だから男子トイレ、心の性が女性だから女子トイレ”という本人のセクシャル(ジェンダー)・マインド(性的心理)による性犯罪やわいせつ事案に発展した際にどのように対処するかなど法的にも現行の法律では難しく、当人がいくら“私は○○だ”としても医療機関を受診して、きちんと診断を受けているのかなど公的に証明することが出来ないのだ。


 もし可能なら、この法律を施行するまでの空白期間にこの法律と同等の効力を持った特例関連法を施行できるように準備し、このような人たちを救済する、この人たちに日常を取り戻すために仮法であっても作るべきだろう。


そして、特例関連法施行時に法的に証明できる免許証とは別のカード(仮称:ジェンダープルーフカード)を発行する事も視野に入れないといけない。なぜなら、男女の認識がある人たちはいきなり性の違う人が入ってくることに対して戸惑う可能性もあり、状況によっては“襲われるのではないか?”・“何か危害を加えられるのではないか?”と違和感を覚える人、“不法侵入”だと言って通報する人など個別認識の相違から来る認識格差が露呈する可能性もある。


だからこそ、このような事態を避けるためにそのカードを利用して専用のトイレ、更衣室など性的区分のある場所に関してはストレートの人との接触を避け、本人の認識している性でお互いに共存でき、その場所を安全に利用することが出来るように配慮することが大切なのだ。


 しかし、今の日本ではそのような仕組みも公的保証は何もない。その結果、結婚も出来ない、外出するにも場所を選ばないといけない、周囲の視線が気になり、自由な恋愛をする事が出来ないなどさまざまな弊害が生まれている。


 ただ、仕事などには大きな影響はないと思われるが、本人がこの事をカミングアウトする事で不利益を被ることも公にはならないものの、少なからずあるだろうと想定している。


 次に“ルッキズムの問題”だ。ルッキズムとは特定の職業に対する先入観などに基づいて“こうあるべきだ”という勝手な虚像を突きつけてしまうことや、“男性なら~”・“女性なら~”など性別による差別や偏見を助長する行為のことだ。特にモデルさんやスポーツ選手などでプロの第1線で活躍している人が基準になっている場合も多く、これらの先入観が子供たちの考え方やその競技に対するイメージや価値観を変えてしまう可能性のある恐ろしいことであることは言うまでもないだろう。


 例えば、“バスケットをやるなら高身長でないといけない”、“バレーボールをやるなら高身長でないといけない”などこれまでの固定概念がそのままその競技のイメージに繋がっている場合、その固定概念で人を判断する事になるため、あまり良い印象を与えることは出来ないし、その事を前面に押し出すことで“選ばれた人しか出来ないスポーツのような印象を与えてしまう。


 これではスポーツにおける多様性が十分に社会に認知されることは難しいし、子供たちが興味を持っても最後まで完遂できない要因となる可能性があるのだ。


 そもそも、全ての人間が同じ体型になることはないし、同じ身長や体重になることもない。だからこそ、“どういう人でも頑張ると夢が実現する”という希望を子供たちに与えられるのだ。


 これはモデルさんなどにも言えることだが、身長や体型、容姿など表に出る仕事だからこそ重視されるポイントがかなり多いことは言うまでもないし、きちんと見せられる人を先方は欲しいと思っている。


 しかし、そのような固定概念は現在の社会においても受け取り方によっては差別や偏見という見方をされてしまう可能性があるのだ。


 その影響もあるのか、少しずつ内部の意識や価値観が変わってきている部分は増えてきたが、まだ必要な部分が多い。


 そして、それを変えるためには社会に浸透させなくてはいけないし、時間が掛かる事を前提に動かなくてはいけない。


 しかしながら、個々が考えている理想像と社会における現実のズレがお互いにお互いを知らぬ間に変えていってしまい、対立してしまうことも十分にあり得るのだ。


 私はこの問題は共生社会“と”共創社会“を作っていくために必要な柱の1つになると思っている。なぜなら、容姿が人生を決める判断材料になってはいけないし、逆にその容姿をコンプレックスに思う人もいる。


 ただ、日本における標準の基準がかなり曖昧に感じることも多くなり、個人差もあることから明確な社会的根拠を伴った基準がない。しかしながら、メディアなどで身長などの容姿に関する話題が取り上げられることや取り上げられた人の容姿に関するネットの反応などが偏見や差別を生むきっかけやトラブルの発端を作ることに繋がってしまう可能性があるのだ。


 まず、多様性を認める社会を作るにはこのような個人の容姿が否定されることを避けないといけないし、その容姿で選択肢を狭められる事はあってはならない。


 むしろ、多様性を認める事は可能性を広げることにつながり、新しい風を吹かせるきっかけになるのだ。そのため、どのような選択肢を持っていたとしてもそれを行かせる場所を作ることがその人が輝く社会を作るだけではなく、新しい価値観を知る事が出来るチャンスになるのだ。


 それらのチャンスを作ることが多様性を社会に広く認知し、その人たちのチャンスや生きる意味を見いだし、そこからその人が持っている個性や価値観、経験などを社会に対して生かす必要があると思っており、そこに至るためにはその人が抱えている問題を解決に向けて多角的な支援と多角的な教育形態を整備することが急務だと思う。

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