第11話:社会的多様性への認知・理解 ①

現在、日本社会においてさまざまな“多様性”について議論される機会が増えている。これは、社会動向を組んだ流れであるが、日本ではこのような例をこれまで多く取り上げられてこなかった。


 理由としては、これまではそういう人が少なく、これらの問題を議論するまでの内容ではないと判断していたからだろう。


 この問題は大人だけではなく、子供にも問題として捉えられるため、子供のうちから違和感を覚える子供も少なくない。


 特に多いのが“スーパーキッズ”や“天才子役”など天才やプロなどの他者と比較してこういう表現をされることで、その人のイメージが“優勝して当たり前”・“1位を取って当たり前”という本人にとってはプレッシャーになってしまう可能性がある。


 私はこのような表現が同じ目標に向かっている人たちの行動を阻害してしまう可能性があると思っている。特に、幼少期から注目されるような人たちと同じようになって欲しいと思ってもその人と同じようにはならないし、そういう期待をしてしまうと子供も大人側も最終的には疲弊してしまう可能性があり、本人の意思ではなく周囲の期待が本人を潰してしまう可能性もある。


 現在、世界で活躍しているアスリートの方々を見ると、幼少期から“親がやらせる”のではなく、“子供自らの意思で決定し、自ら努力する”のように自分の意思でどこまで継続し、その意思決定をどれだけ周囲がサポートできているかでその先が決まってくように感じるし、その結果が子供の将来の意思決定や取捨選択などに繋がっている。


 そして、幼少期からいろいろな人と接していることで人の見方もきちんと備わってくる。例えば、街中ですごく奇抜な格好をしている人を見かけて、子供が「ママ、この人すごくかっこいい服着ている」と話しかけたときに「本当だね!ママも昔こういう服を着ていたのよ」と返すのと「あの服のどこがかっこいいの?あんな服着ている人はろくな人がいないのよ。」と返すのでは子供の受け取り方が違ってくる。前者なら子供に対して尊重と承認を含んでいるため、子供は“ママも同じ服を着ていたのか・・・。ママに似合っていそう”とその頃の姿をその人に合わせて想像することで感性が豊かになり、どんな人であっても偏見の目や差別の目で見ることはない。しかし、後者の場合は母親が否定していることから“こういう服を着ている人には近づいてはいけない”などそのような人を避ける傾向が出てきてしまい、さまざまな人とすれ違っても人を容姿などで判断する事が増えてしまい、結果として子供たちが成長したときに相手に対して「女々しい」や「仕草が気持ち悪い」などと相手を否定するような言葉が多く用いられ、その延長線上に“いじめ”や“いじり”など他人に危害を加えることで自分を主張するという手段に出ることもある。


 その他にも“○○ちゃんは変な子だから相手にしない方がいい”など学年内で影響力がある子から言われた場合や“この子が作る物、考え方を理解出来ない”のように自分の主観的思考などがズレている場合にはこのような事象が発生しやすく、最も警戒すべきパターンであることは言うまでもない。


 このように、現在の日本における多様性の社会的思想は少しずつ理解が進んでいるように感じるが、一方で未だにいじめやいじりなどの巧妙化や容姿などで差別する、協調性などを強要されるなどまだまだ十分ではないし、そういう子供たちをどのように救い出すのかを考えているような団体は少なく、このまま行くと社会崩壊や貴重な人材を既存概念で潰してしまうことになったとしても罪悪感を持つ人は少ないだろう。


 今も幼少期から活躍するような子や遅れて芽が出た子、コミュニケーションはうまく取れないが発想や想像力が大人以上に長けている子などさまざまな子がいるが、このような子たちの中には学校に行けている子もいるが、そうではない子もいる。つまり、“学校に行かなくてはいけない”ではなく、“学校に行かなくてもいい”かつ“自分で新たな荒野を開拓できる力がある子”がこれからの時代は増えてくると思っている。その背景に小学生・中学生ならICT教育、高校以上ならデジタル教育など授業のデジタル化が進んでいるため、学校の授業で受けるのではなく、家からでも出先からでも自由に授業を受けられる環境にはある。


 しかし、日本では著作権や情報管理の都合上登録されている端末以外からのアクセスが出来なくなっているため、学校外では指定機器以外では授業が受けられない可能性が高いのだ。そのため、学校を休んだとしても端末を持ち帰っていないと勉強が出来ないのだ。


 そして、長期欠席だと学校によっては端末の持ち帰りなどを制限しているケースや経済格差や世帯間格差により家庭のインターネット環境がない、電気が止まっているなど経済的な理由で授業が受けられないというケースもゼロではない。


 そのため、子供たちは授業を受ける場所が制限されるだけでなく、その学校で習っている内容が場所を問わずに学習できないし、ホームスクールなど子供たちの学習機会はいくらでもあるのだが、学習環境がきちんと整備されていることや学習計画や受験などをするにしても自分たちで傾向と対策などを組まないといけないため、以前に1度きちんと経験をしていない状態でこれらの計画を進めてやり方を失敗すると子供にも親にも取り返しの付かないことが起きてしまい、子供の将来に大きな影響を与えてしまうのだ。


 私は授業を必修科目以外は個別選択を出来るようにするべきだと思っている。例えば、理科や社会などであってもみんなで同じ内容を学ぶのではなく、理科ならある子は科学系、ある子は植物系、社会なら地理・歴史・政治経済を基礎科目としてマネジメント・法学・経済学などカリキュラムに準じた物の上にそれらを活かして子供たちに体験させるというのも1つの案であり、図工も通常カリキュラムに加えて、商品開発やイベント企画、個展、修繕など授業で学んだ物を実際に作らせることで子供は自分の新たな一面に対する気付きに繋がるのだ。このように小学生からトライアンドエラーを実践させることが大切だと思っている。

そして、そのような教育に特化した学校を運営し、子供たちが自分たちで授業を選び、その授業で習った事を自分たちで作り、企業や個人事業主などに売り込むことやアドバイスをもらって1つの物を作るなど子供たちと社会の架け橋になる物も大事だろうと思っている。


 現在、日本の教育基本法や学習指導要領に準じた授業を展開している学校が多く、このように一部に特化した学校は多くない。そして、そういう学校は設置認可が下りない可能性も有るのだ。


 ただ、裏を返すとこのような学校を作ることで子供たちの柔軟な発想力から企業にとっては商品開発における気付きとその世代の基準が明確に分かり、こういう商品ならこの世代には売れやすいという明確なデータを基にアイディアを練ることや実際に使ってもらって率直な意見を聞くことが出来るのだ。


 そして、個性的な子ほど大人は絶対に考えない奇抜な物や個性的な物を提案できるため、既存の商品のラインナップとして商品に反映することでこれまでの購買層だけではなく、新規の人や既存の購買層であっても購買率の向上など予想外の反響や盛況に繋がっていくのだ。


 その他にも企業と教育機関が提携して、個別アカデミーの開設をすることもこれからの物作りを支える人材を育成する上で必要だと私は思っている。


 これは、スポーツなどの世界では幼少期からトライアウトやスカウトで良い選手を集めて自分たちで育成を行い、トップチームという目標に向かって競わせることで良い選手が育つことと同じで、企業に関しても早期から優秀な人材を発掘し、その人材を早期から育てることで当該企業が採用するかの判断がしやすくなり、長期間かけて育てる人材であることから就労移行もスムーズに行うことが出来るメリットやピンポイントで商品開発にも携われるという一面もあ

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