第9話:相互理解 

現在、日本において不足しているように感じる部分がある。それは、“相互理解”と“相互支援”だ。


 この2つは社会を円滑に進める上で必要なものだと思っている。しかし、このような考え方を持っている人はほとんどいないのが現状でそういう状態を放置し、常態化させてしまったことで相互理解がおろそかになり、利己的な感情が生まれてしまうのだ。もちろん、これは“悪い”とは言い切れないが、その考え方が先行してしまうと今度はその考え方が習慣化して行くことになり、今度はその考え方に弊害を生む可能性を秘めている。


 しかし、このような状態が長期化すると自分と違う人たちを避ける傾向が強くなる。そして、人というのは自分の利益に繋がらないと動かない。これは人間として当然の感情だといわれることが多い。そのため、自分が相手と同じようになったときにどのように対応するかが信頼などを構築出来るかどうかの運命の分かれ目に繋がることもあるのだ。


 それらを考えると十分な相互理解が必要な理由として、まず第1に自分側の“Why”と相手側の“How”の関係性だ。これは、相手が“なぜ”そのような行動をするのか?という疑問を持つことで視覚情報から原因や解決方法を探ることで相手の立場に立って物事を考える事が可能となり、自分が相手と同じ感情を持ったときにどのように考えるかを脳内でシミュレーションすることが出来るのだ。そして、その経験を活かして別の人の相談にも乗ることが出来るし、同じ問題でも違うパターンで発生している場合でも比較と分析がしやすくなると思っている。


 これは、幼少期から少しずつ訓練されることで定着が進み、お互いの気持ちを理解する、自分とは違う子がいる・人がいるという認識が芽生えるなどメリットはたくさんあるのだが、一方で親の愛情を十分に感じられない、虐待を受けていた、恐怖体験をしているなど本人にとって社会とのつながりが難しい場合にどのように対処するかがも問題であり、そういう子供たちがいる場合には最初から相互理解を求めるのではなく、まず自己理解を深めたのちカウンセリングなどを繰り返していくことで基礎的な心理傾向を構築し、そこから生活心理、社会心理などを積み重ねていくことで改善はされる。しかし、子供の心理というのは幅が広く、“この子にはこの指導法で大丈夫だが、この子には別の指導法を考えないといけない“という”子供毎に適切な個別指導“が求められる。


 個別指導で最も難しいのが精神発達段階における第三者との交流方法だ。現代はプライバシー保護の観点から以前よりも相手の顔が見えない、情報が少ないなど判断材料が乏しい傾向にある。そこに子供たちの間ではタブレットやスマホなどデジタル社会を象徴するものが多く存在している。そして、そのデジタル機器を所持しているケースは以前に比べると増えているということを考えると相互理解を深める世界観がかなり狭まっているのではないか?と見て取れるのだ。実際にいくつかの調査事例を見るとやはりデジタル機器に触れる時間が増えたことで子供たちの判断力が不安定になっている事が少しずつ顕著になってきているのだ。


 確かに、今はスマホの時代になり、コミュニケーションも学校以外ではスマホなどのデジタル機器を活用している傾向にあることから子供たちは相手が目の前にいて、その人に向かって話すという機会は以前に比べると少なくなっているように感じるのだ。


 そのため、学校内のいじめが増えるのも相互理解が不足しているもしくは相互理解意識が低下しているという可能性が考えられるのだ。


 もちろん、子供たちは家庭でも学校でも会話をしなくてはいけないと思い、親や先生などが努力をしているのだろうが、その思いが子供に伝わらないこととこれからはデジタル化が進むことで会話が以前よりも重要になってくる。


 今は会話が少ないように感じる理由の1つに“コロナ渦”や“リモート”といった1人で何かをするという傾向が強い。そのため、中学生までの子供たちは部活動や学校の授業などでコミュニケーションを取らないと会話する場所もない。


 そして、今は以前に比べると子供が守られすぎている傾向にあるため、大人とはなしただけで大人が不審者になってしまう、相手が知り合いだとしても何かやましいことを考えているのではないか?と周囲から思われるなど相互理解が進んだとしても完全な関係性を築くことはかなり難しい。まして、今は反抗してきた女子児童・生徒の手を掴んだだけで“セクハラ”と言われ、注意すると“先生にいじめられた”・“先生からパワハラ(=パワーハラスメント)を受けた”という子供もいる。


 このような状態を子供同士の人間関係に当てはめても同じ事が言える。例えば、男子児童・生徒に対して反抗をして喧嘩になり、殴りかかられたとしても怒られるのは必ずと言って良いほど男子側だ。女子側はよほどのことがない限り怒られることはない。


 確かに、日本の社会は男性よりも女性が擁護されやすい社会になっており、幼少期から“男の子なのだから~”・“女の子なのだから~”と言われて育ってきた子供たちにとってはある一定の年齢から“性の不平等”を感じやすくなる社会であることは間違いない。


そして、社会でも女子・女性のほうが有利に働くことが多いことから男子・男性にとってはかなり難しい社会になってしまっている。


 そして、今は子供たちの成長が以前よりも早く、考え方が変わる年齢も低年齢化していることから社会においても、学校内においてもきちんと相互関係を構築しないと問題が大きくなるだけではなく、解釈の相違により犯罪になってしまうこともある。


 次に“子供たちの許容範囲が大人によって形成されている”という点だ。これは、相互理解の仕方を両親などの大人の行動を見て、子供たちは習得していく。そのため、相手を陥れることや悪口を言うことなどが多い環境では子供も悪口を言っても良い、相手を騙してもいい。という間違った認識が生まれる。そして、その心理がいじめにつながり、優位性に繋がっていくのだ。


 特に、両親を含めた周囲の大人に守られて育った子供の場合、毎回何かされても守られたことが記憶に残り、わがままを言っても、気に食わないからといって殴っても絶対に守られるという根拠が出来上がってしまうのだ。


 その結果、男の子の場合は自分が気に食わない子や自分をバカにしてきた子に対して何をしても許されると思う子も少なくない。


 そして、女の子の場合は何かされても守られるという自信があることからやられそうになると泣くなどして助けを求める子や大声を出す子など自分が守られるという自信が生まれることで大胆な行動を出来るのだろう。


 もちろん、家庭環境や周辺環境なども起因しているのだろうが、日本の古くからの風潮から考えると“女性は守られるべき“という考えが浸透している。その影響として、男子・男性側がかなり難しい立ち位置を迫られている様子だ。


 その結果、学校外ではえん罪などで警察に捕まることや学校内ならその子に濡れ衣を着させられてしまう可能性もある。


 このように認識格差がある実状を考えると、どこかで修正をしないとあらぬ方向に進んでしまう可能性があるのではないかと危惧している。


 例えば、園児なら“男の子も女の子に、女の子も男の子の事をいじめてはいけません。”や“お互いに触ってはいけません”という指導を定期的にするべきではないだろうか?


 なぜなら、男子・男性が触ると犯罪だが、女子・女性が触っても犯罪にならないケースが多く、このまま行くと女尊男卑状態になりかねないように感じる。


 これではいくら男性側が努力しても改善されることはないだろうし、恐怖心で何も言えなくなる可能性もある。


 相互理解は幼少期からの親などの大人がどれだけその子に対して愛情を注いでいるか、愛情を注がれていないか、嫌なことをされた経験があるか・ないかで理解度が変わってくると思っている。


 お互いを理解し、その人が生きやすい社会を作るためには接したことのある人がその経験を発信し、その経験を社会が生かすことが大事だと思うのだ。

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