第7話:人間関係 ①
私は幼少期から人生設計の本質になっているのは“人とのつながり”だと思っている。これは、“人というのは1人では生きていけない”という言葉に象徴されるように1人で生きていくことも出来るが、時には人の手を借りないと生活が出来ないということになる。
そのため、相手がいないケースはほとんど存在していない。
例えば、中学校・高校受験をするにしても見えないところでさまざまな相手が関わっているし、悩みがあるときに相談するのも養護教諭の先生やカウンセラー・病院の先生と相手は人間になる。
このように、人間は幼少期から常に人と関わらないといけないのだが、成長するにつれてこれらが崩れていく瞬間がある。それは、“人は経験したことがないことは机上の空論で片付ける”ということだ。
例えば、子供たちが喧嘩をしていた時に“止めなさい”という声かけをした場合に怒った先生と喧嘩をしている子供で齟齬が起きる。なぜなら、子供たちには“喧嘩”ではなく“ふざけあい”や“じゃれ合い”という別のニュアンスが存在している。そのため、そこで止めてしまうと子供たちにとっては“この子と遊んではいけないのか?”や“なんでこういうことをしてはいけないのか?”という疑問が生まれてしまう。
日本の場合、誰かを殴る、蹴るなど身体的暴力に対して度合いを見誤っているケースが多数存在する。
子供の場合、喧嘩でも本気で喧嘩をしている場合とじゃれ合いやふざけ合いの延長線上の交流という場合と2パターン存在している。
もちろん、物を使って相手を攻撃することや連鎖的に暴力行為が助長される状況なら止めに入らないと子供が怪我や死亡など最悪のケースを招いてしまう場合は別だ。
今の人間関係というのは直接的な人間関係もあると思うが、1番は“その人が成長過程でどのような人と関わってきたか?”ということだ。これは、いわゆる“本人が周囲の大人からどのような言葉をかけられたか、どういうことをされたかでその子の考え方が構築されていく。
これは本人が経験してきた物事や言動が実際に成長過程でコミュニティへ出たときの判断力・対応力として現れる。
そのため、幼少期からきちんと会話してこなかった子は友達に話しかけられてもどう話して良いかわからず黙ってしまう事が多いし、親から十分な愛情を受けられていなかった子は同じクラスにいる同級生に対してどのように接するべきなのか分からず、優しく接することが出来ないというケースが多いのだ。
このように1つのコミュニティに出ることでそれまでの成長過程で培った価値観や基本作法などで個人差が生まれてくる。しかし、日本では“ここまで出来ていて当たり前”や“ここまで出来ているのが普通”という考え方のものさしで人を見ていることが多く、そうではない人は孤立していく。
例えば、“お箸の持ち方が出来ていない”という話になったときに周囲からすると“もう小学生なのだから”・“もう中学生なのだから”と実年齢でかつその人の基準で評価や価値観の押しつけが始まる。
私はこのような場合は“出来ない”ではなく“このような持ち方もあるのか”とその子の個性として認め、その子の多様性や創造性の高さとして評価するべきだと思っている。なぜなら、その子にとってはその持ち方が食べやすい、持ちやすいということを何度も試して見つけ出した答えだと思うからだ。
今の社会風潮からして“すでに出来ている基準と同じ事を模倣させる”という事が正しいような雰囲気になっており、同じ事を教えても簡単に身につく子と時間の掛かる子に分かれてしまう。前者は成功体験が本人の達成感や自己肯定感に繋がっていくが、後者は失敗体験が積み上がり、子供の自尊心や自己肯定感が下がる事も十分予見できる同じように教えても成長段階では手の大きさも足の大きさも定まっていないため、手指が長いこと手指が短い子がいる。そこに“先生と同じように持ちなさい。”と言われても出来る子と出来ない子に分かれてしまい、子供たちにとっては“どうやってこの状況を打破するべきなのか?”と迷ってしまうことも十分懸念される
そして、先生が他の生徒に指導する際に声を荒げると身体が反応してしまい、フラッシュバックする子もいることからいくら礼儀作法といっても同じようにやらせることは子供によってはいじめられていると感じることもあるため、あまり酷い持ち方をしていないならそのままでも良いと思っている。
そして、今の日本において私が危惧しているのは“個人学力の差”や“持っている物の差”など個人差が求められる部分における認識差が人間関係に影響しているということだ。
特にいじめなどが発生している状況や暴力行為を受けた時の状況を考えると“○○君は○○を持っていないだろう?”や“お前は生意気だよ”という自分の価値観を天秤にかけてしまい、相手が“なぜ?そのような行動を取るのか?”や“なぜそういう事をいっているのか?”をあまり考えていないということが分かった。
そして、いじめをすることで自分の存在感を表したいという一心の表れのような部分もあるように感じる。
もちろん、これは人間が持っている闘争心や競争社会における縮図だという意見もあることは承知しているが、ここで間違ってはいけないのは“多様性”や“個別認識”などの社会的思考と共通認識の中にある個々の考え方である“個別基準”がかけ離れてしまうと、ミスマッチングを自分の脳内などで起こし、違和感を覚えてそこから他者に対して嫉妬すること、比較することなど自分との違いをあら探しのように探してしまうことが増えていってしまう。
これが結果として“相互理解”や“他者理解”に繋がりにくくなり、自分と違う考えだからという理由だけで人を痛めつける、人に対して誹謗中傷するなど相手を攻撃することを始めてしまうのだ。
これは、幼少期ならまだ分かるが一定年齢を超えても起こる事象になっている背景に“数字”や“評価”などの外因的印象につながる事象をことある毎に経験し、1人1人に“順位”や“年功序列”などの一般社会における総合基準がかなりきつく巻き付いているからだろう。
これは大人にも言えることだが、子供にも十分言えることであることは間違いない。
なぜなら、子供たちは大人の所作や言動、相互関係などを隣や同じ空間など常に近い位置から見ている。そのため、学校などで対応差があると子供は敏感に感じてしまい、何か嫌なことをされたとしても反抗することなく謝罪をするなどして自分に不利益を被らないように取り繕うのだ。
例えば、“男子児童(生徒)が女子児童(生徒)をいじめている”もしくは“女子児童(生徒)が男子児童(生徒)をいじめている”という報告を受けたときに多くの人は“男の子が女の子に手を出すなんておかしい”とは言っても“女の子が男の子に手を出すなんておかしい”とは言わないでしょう。では、その違いは何なのだろうか?
私は“男性=強い、女性=弱い”という固定概念からそのような発想が生まれてくる、両親の喧嘩や言い合いによって父親が母親を殴っている・罵っている光景を見る、母親が父親を殴っている・罵っている光景を見るなどして“気に食わないことがあった時は相手を殴っても良い”という間違ったことを覚える可能性がある。
そのため、小学校や中学校でも自分の気に食わなかった事が起きると相手を殴ってしまう、相手を脅してしまうなど“そういう事をすると相手が言うことを聞いてくれるのではないか?“と錯覚してしまうのだろう。
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