第4話:中等教育 応用編
現在の中等教育では義務教育課程の最終学年と位置付けられており、小中学校9年間で基礎教育が完成するという仕組みになっている。しかし、この仕組みが子供たちの関心・意欲や興味・関心を二極化させているように感じる部分も少なくない。
例えば、国際的な人材を育てることを目標にした“教育のグローバル化”や“世界で活躍出来る人材の育成”などかなりハードルが高い目標設定になっている事から子供たちの個別能力を確実に把握して動いていかないと子供たちの“挫折”や意欲喪失“など個性の埋没に繋がってしまう可能性がある。そして、これらの目標に囚われてしまい、知らぬ間に子供たちの個性や感性などを潰してしまう可能性も多い。そして、自分の限界値に達してしまうと自分の殻に閉じこもってしまうというサイクルも懸念される。
もちろん、教える側にも学ぶ側にも何らかの力が働くことは多いが、その取り組みを数字で表されてしまうことは何としてでも避けないといけないと私は思う。
なぜなら、子供たちというのは幼少期から数字に支配された生活を送らざるを得なくなっている。そのため、“ちょっとでもいい点数を取らないといけない”・“ちょっとでもいい順位を取らないといけない”・ちょっとでも良い学校に行かなくてはいけない“と自分の個性を壊してでも周囲のイメージを優先させてしまう事が初等教育と比べると一段と増えていく。
私はこれらの要因が子供たちの学習意欲に直結しているのではないか?と感じるのだ。これはあくまで私見だが、現在の子供たちは早期から学習塾に通っていることそうでない子、習いごとをしている子とそうではない子など“教育機会の二極化”が最も進んでいる期間であるように感じる。そのため、子供たちの習得率に大きな差を生んでいることや生徒間での知識・理解などでも個人差が大きくなる傾向にある。
もちろん、これが生徒本人の意思なら問題ないが、家庭の経済的な理由など生徒本人では解決出来ない領域に達している場合にはこれらの起きている事象に対して積極的なアプローチを必要とするケースが多々見られる。
日本の場合、教育機会の公平性を担保すること、教育内容の統一など文部科学省などが内容を決定し、その内容を中心に学ぶという教育スタイルを取っていることから他国に比べると少しずつ後れをとっているのではないか?と疑問に思う部分が多い。私は“出来る・出来ない”ではなく、“取り組む・取り組まない”が焦点であるべきだと思う。
これは、生徒に対して“出来る”か“出来ないか”で判断させるのではなく、どのように“取り組む”のか“取り組まない”のかを提示し、そこで個人が1つずつ選択していくというスタンスを取ることが大事だと思う。これはいわゆる“生徒個人の人生観に沿った教育の在り方の提示”を示している。
しかしながら、現在の制度を見ているとこれらの人生選択の自由において明暗が分かれているという反面もある。というのは、この子は“勉強が出来るからこの学校に行って欲しい”や“この子は運動で好成績を収めているから強豪校に行って欲しい”など本人が目指している目標と先生たちの進路指導に対する考え方が一致している場合は良いが、自分の評価のために生徒に実績を求めるのは違う。
このような事例は学力に恵まれた生徒が在籍していた学年で担任をしたもしくは進学に関わる塾などで担当した人に多く見られる傾向だが、これらの価値観が相手の見方によっては“社会的優位性による実績搾取”と取られる可能性がある。
確かに、日本において“実績がある”と評価される人の例として、毎年有名進学校に担任・担当した生徒を送り出している、勉強が出来ない子がこの先生が指導したおかげで進学校に合格したなど評価をされるのは主に担任・担当した先生であり、努力をした生徒が評価されることは多くない。
これは中等教育に限った話しではないが、このような体験・経験を中等教育から受けていると思春期特有の人格形成や精神発達に何らかの影響が出る。そして、思春期は心理的にも不安定になりやすい時期でもあることから子供に寄り添った教育がどこまで浸透するかで変わってくると思う。
また、今の教育ではどの科目であっても基本的に同じ内容を全員が同じように学習するもしくは習熟度別にクラス分けをして学習するという2パターンが存在している。しかし、このような学習では“他のクラスよりも進捗状況が遅れている”ということで先生が解説プリントなどの授業資料を渡して調整するケースもあるようだが、これでは子供たちの学習を大人の事情でコントロールしているような状態になってしまう。これでは子供たちの知識・理解における個人間の習得速度において差が広がるだけでなく、理解不足によりその子の学習意欲の低下や授業についていけなくなり、不登校になるなどマイナスの結果が引き起こされる懸念がある。
もちろん、生徒の中には“高校に進学しない”という選択をする子もいるとは思うが、その理由として“自身に明確な夢や目標があり、その夢や目標を達成するために高校に行かない”と決めている子なら良いが、“勉強についていけない”・“みんなみたいに出来ないから行く必要がない”という否定的な見地に至ってしまい、その選択をせざるを得ないとなると話は別だ。
確かに、今の日本において基本知識のほとんどは初等教育から中等教育にかけて形成されている知識が多く、これらの知識を得られないと特技などで秀でた利点がない限り、社会から孤立する事になりかねないのだ。
では、このような事態を避けるためにどのようにするべきなのだろうか?
私の私見としていくつか提案したいことがある。まず、“個別進度設定カリキュラムの導入”だ。
このシステムはいわゆる“個人の学力に応じた学習量を設定し、その学力を活かして授業を受ける。そして、一定の知識・理解が進んでから先に進む”という段階的知識習得に特化したカリキュラムで、このカリキュラムの利点としては個人のペースで学習を進めることが可能となり、周囲のペースを気にすることなく学習を進めることで子供たちの知識・理解へと繋がるのだ。
そして、子供別の学習進捗は授業終了後に担任の先生と科目担当の先生(同一教員の場合はいずれか一方)に送信され、進んでいる子に対して応用・発展問題を送付するなどして今回の授業で取得した知識の幅を広げることが出来るように学習を促すことも1つの教育機会を増やすことにつながり、子供たちの学習に対する姿勢を安定させることに繋がる。
その上でテストに関してもその子が学習した範囲が終わる毎にテストを実施し、そのテストの点数を学習評価として反映させることで学習目標に関わらず子供たちの関心・意欲・態度を正面から評価できるようになるのだ。
次に“通常学習とキャリア教育の並行実施環境の整備”だ。
これは、通常の教育指導要領に準じた学習カリキュラムの他に特定科目での社会的教養の指導や個々のキャリアプランに基づく指導など学習したことを実践する事が出来る環境作りだ。現在では動画投稿などのSNS活動を親と始める生徒も少なくないため、この時点で両立させることの大切さやネットリテラシーの指導など多角的に活動の選択肢を得られるように子供たちの意思を育むことが自己肯定感や自尊心を安定させることに繋がる。そして、これまで他者競争型のクラス構造だった部分を個人尊重型のクラス構造にすることで自分の選択を他者に干渉されることなく判断することが出来るという子供たちにとっては他者に干渉されることなく自分の夢を追うことが出来るのだ。
というのも、中等教育というのは初等教育と高等教育との架け橋であり、義務教育の最終過程ということになる。
そのため、この時期は“将来の方向性やそのために必要な事を考える時期”として着目される必要がある。そして、これらの考えたことを試験的に実行に移して達成可能か、その能力は備わっているのかなど自己分析に基づいた検証することも必要になってくると思う。
たいていの人たちは3年生になってから将来の事を考え、その達成のために必要な経歴を整えようとする。そのため、1年生から志望校の選定をしている子供たちとはこの時点ですでに受験や進路に対する意識にかなり大きな差が生まれていることになる。
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