第10話:政治における問題意識

現在は自由民主党が与党第1党に、立憲民主党が野党第1党にそれぞれなっているが、私はふさわしいとは思うが改善しなくてはいけない課題も山積しているように感じる。その理由として“予算委員会などで与野党が対峙して話し合いをしているが、お互いが相手に責任を転嫁し合っているだけに見える”ということだ。


 これは私から見ると会社と似た構図が国会など政治の場面でも発生しているのではないか?と感じた。


 しかし、質問に立つ議員さんなどの話しを聞いていると現場の声が反映されているのか疑問に感じる事も多い。


 つまり、地元の声だと言っても“一部の限定された年齢層”や“その人もしくは政党の支援団体”などの限られた人の声を列挙して発言している可能性があるのだ。


 これでは何も進まないし、その問題で悩んでいる人は憤りを感じかねないと思う。


 例えば、夫婦別姓や同性婚など民法の改定をしないと公的に認められない。しかも、これを認めていないとなると憲法で保障されている“生存権”や“個人選択の自由”を国家が無意識のうちに国民の意思決定権を違反として放置したままの状態になっているため、国民が民法・憲法上で行使可能な諸権利や性別を問わずに法的に認められている権利である“婚姻の自由”などの国民の権利を行使出来ない状態が長期にわたっている。もちろん、私は夫婦別姓や同性婚は賛成であり、現代におけるグローバルスタンダードだと思っている。


 しかしながら、日本における婚姻の解釈は“男女”に限定されていて、それ以外は認められていない。つまり、男女という性別を持たないと日本という社会では結婚しているという認識を持たれないのだろう。


 私はこの状態が続くと日本の人口は更に減少すると考えている。なぜなら、同性婚の人たちが仮に子供を産みたいとしても出生届などの書類は母親の名前は書けたとしても、父親の名前はプライバシー保護を理由に明かされない可能性がある。このような状況で党内分裂などを起こしているような現状では到底このような権利が法的に認められることは長期戦になる事は覚悟しなくてはいけないだろう。


その他にも労働基準法の改正・改定、社会福祉法・児童福祉法の公的福祉関連法の追加条項の改定など今の社会における公的支援を拡充させるために必要な法律の創設と改正・改定が必要になるが、未だに国会などでは議論されている気配はない。


なぜこのような事態になっているのか?私が考えた理由として“万が一、最悪の事態が起きたときに私たち政府や国会議員の責任にされてしまい、自分たちの身を守れないのではないか?”という自己防衛論が影響しているように感じる。その他にも素行などでトラブルを起こす、法律に抵触する行為を行うなど、実際に起きているにも関わらず“私はやっていない。秘書か事務所の誰かが勝手にやったのだろう”などと逃げるように言い訳をし始める。そして、“私にはこの問題の責任を取る必要はない”といって自己擁護に走る。


これは日本社会における他責思考を助長する、容認する為の言い訳に使われかねない重大インシデントだと思う。これが、国民にも定着する事で「国のお偉いさんたちが人のせいにしても何も言われないから、自分たちがやってもいいよね:という誤った認識が広がり、連鎖的なトラブルを引き起こすきっかけに繋がる可能性がある。


そして、私は多くの方と話し合ってみたいことがある。それは、“なぜ、若い人たちが選挙に行かないのか?”ということだ。特に20代・30代に関してはまだ今回の年代別の投票率の正式な実数値が出ていないため、詳細は分からないが、低水準を維持している可能性は否定できない。


一方で10代の投票率を見ると全体で見ても約半数以上は投票している事が分かる。10代と20代・30代における投票率の差は何なのだろうか?


 私がこれらの情報を分析してみるとある傾向があるように感じた。それは10代の有権者は“多様性を認める社会を作るこれらに関する興味・関心の高さと問題を解決するという意欲、環境問題に関する興味・関心の高さと問題を解決するという意欲、SDG’Sなどの未来に繋げるための活動への興味・関心の高さと活動への参加意欲など他の年代とは着眼点が根本から異なっているように感じる。


 一方で、20代・30代に関しては就職などで社会進出を果たしている人や結婚や出産などが身近にあるため、実用性の高い政策マニフェストを掲げている政党に投票することや友達と同じ政党に投票することなど同調性を求める人も少なくない。一方で、“いくら投票しても社会が変わらない”・“そもそも政治に興味がない”という人が増えていて、投票する人も減っていくだけでなく、個々が持っている意識にもどんどん差が開いていっているような状況だ。


 このように、持っている問題意識の差が下の年齢ほど高くなり、今後は40代以上の中間層と投票率が変わらなくなるのではないか?と思う事もしばしばだ。


 そして、今は10代・20代のテレビのコメンテーターやインフルエンサー、活動家など若い人が先頭に立つことや1つの主張やデモであっても問題意識の高い人たちが先陣をきって訴えていく姿も多いことからそういう姿を見て意識が変わる人も多いのだろう。


そのため、今回も自民党が絶対的過半数を得られたのは“国民からの支持をもらえたこと”だと選ばれた人は思っているが、裏を返すと“国民からの最終試験”という位置付けではないかと思うのだ。


 その理由として、リーダーシップなど政治的手腕や評価を多角的に見たときに実現できそうな政党を自由民主党と立憲民主党などの第1党しかないと思っていて、来年には参院選が控えていることもあり、これが本当の正念場になると私は思っている。


 そして、来年の参院選では新たに選挙権を持った10代の若者が更に増えることになるため、約1年程度の間に個人もしくは政党単位で何らかの成功実績を作らないと今まで得られていた得票数を得られない可能性や新たに票を獲得することは困難になる可能性も出てくる。そして、今回も起きたような小選挙区での票数の拮抗などを招くことになる。


 仮に現段階では若年層の支持を得られていないと思っていても長期的に見た時にきちんと各年代に寄り添っていかないと議員や政党の個人・党評価が下がっていく可能性も同時に発生するため、油断は出来ない。


 そして、若年層が問題だと感じている事をどれだけ真剣に取り組み、成果を上げるかで次回以降の選挙において若年層からの票がどれくらい取り込めるかが決まってしまう。


“僕は(私は)誰も選びたい人がいないから、他の人が選んだ人にやってもらえればいい“

これは選挙など誰かを選ばなくてはいけない場面で投票しない人が考えやすい言葉の1つだ。これは私生活などでもよく見られるが、“自分が何をしても無力だから“という考えをしている人が多いのが現状だろう。そして、これが政治の世界なら同じ政党であっても考え方が違う人はいるだろう。しかし、きちんと正面から向き合って行かないと“この問題は政党としては真剣に考えていない”・“党内の調和が取れていない”とマイナスイメージが先行し、評価も下げることになりかねない。


 しかしながら、今の日本の政治において、“自分のミスを他人に押しつける”・“先輩議員が後輩議員に責任を押しつけて逃げてしまう”など優越的立場を利用した他責行動は日常茶飯事のように後を絶たない。


 そして、その責任を負わされた人は何とかして誰かに責任転嫁をしたいと思う気持ちも少なくないだろう。


 つまり、国民側も議員側も“他責思考の呪縛”に襲われているということになるのだ。そして、他責思考の呪縛が“なんで自分が責任を負わなくてはいけないのだろう。あいつに責任を負わせればいい”と年功序列型思考で考えることが増えていき、その行動をした人がどんどん負の連鎖のように別の相手に対して行うことでやられた相手が追い詰められていくことになるのだ。


 今起きている問題をきちんと精査して自分の責任なのか、相手の責任なのかを明白にして、そこから何が必要になるのかを考えて、知っている人たちに向けて説明をする習慣を付けていかないと今後の議員生命に傷を付けることにもなりかねない。

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