第5話:いじめ問題が未来を壊す
現在、日本では大小さまざまないじめ問題が発生しており、事例によっては被害者が自殺等により亡くなっているもしくは自殺未遂などにより大けがをしているケースも少なくない。
そして、そのような経験が低年齢化していくことで被害者本人の精神発達や社会性が低下していってしまい、人生が狂ってしまうことが多くある。
そこでいじめ問題の課題について考えてみたところいくつかの問題点が見つかったので、一緒に考えてみたいと思う。
まず第1に“社会におけるいじめ認識の甘さ”だ。
これは、子供たちに限った話しではないが、社会において“いじめられる子供=問題がある子”という認識をしている人が多く、いじめ問題に対して“やられている子が悪い”という判断されるケースが多い。特に小学校低学年ではいじめなのか、じゃれ合いなのかを見分けることが難しく、学年が上がっていってもこの問題は付いて回る。そして、いじめという問題の深刻性が当事者と社会ではかなり乖離していて、当事者の気持ちに寄り添うというよりもういじめというワードを軽く見られることもある。
それらの認識の違いはどこから生まれてくるのだろうか?
私は“いじめを受けていたか、いじめを傍観していたかでいじめに対する問題意識に差が出る”や“いじめは関わると飛び火して自分もいじめられる可能性があるから関与しない”という心理が影響しているように感じる。
次に“いじめの解決法における相対的解決法の選択と課題”が挙げられる。
これは、私自身が経験したこともあるが、いじめを受けると誰かに助けを求めることは子供たちの心理として十分考えられるが、いじめが起きたときの初期対応における誤った判断をする人が多い。
例えば、Aさんが「Bさんからいじめを受けています。」と先生や保護者に相談したときに多くのケースで加害者(ここではBさんと周囲の子供たち)側に聞き取りをしに行くことがある。これはいじめをエスカレートさせる可能性のある問題行動となり、学校の風紀によってはそこからいじめがさらにエスカレートしていき、被害者側を苦しめることになってしまう可能性があるのだ。
そして、私の時代はそういう話しが出てくる度に学年内もしくは同性間で犯人捜しが始まるケースやこのようなアナウンスが新たないじめの火種となり、いじめの連鎖に繋がるきっかけになっていく可能性もある。
そして、この話が保護者などにも「Aくんからこういう相談があったのですが、ご家庭ではどうでしょうか?」という形で伝わることで今度は子供たちが家に戻って親から「なんでいじめられていることを言わなかったの?」と言われて居場所をなくしてしまうというケースも想定できる。
日本において適切に解決するという術は私の知る限りでは見つかっていないと思う。そして、北海道のいじめ死亡事例、東京のいじめ死亡事例、滋賀のいじめ死亡事例を見ていると初期対応の時点できちんと被害者側の話しに耳を傾けることや在宅での学習の承認などいじめを悪化させないために出来る事はいくらでもあった。しかし、いじめ防止法には“学校内でいじめ等が発生した場合には教育委員会等にいじめの発生報告書を提出する”といった明記がある。しかし、この報告書の提出が遅れるもしくはいじめの事実を隠蔽してしまうなど自己保身に走る学校が多く見られたことで、いじめの認知が遅れる事につながり、初期対応を間違えたことで最終的に子供たちが自殺してしまうという悲しい末路を迎えるというスパイラル構造が日本のスタンダードのように一般化してしまっており、これらを改革しないことには日本のいじめ問題は解決しないし、子供たちもいじめられたとしても相談しにくい。
その理由として子供に関わる人たちの“いじめ問題を上に知られる前に解決したい”という自己保身的心理が働いていることが第1に挙げられる。これは、いじめ発生事例の多くのケースで見られ、内容を精査すると“いじめが起きているということが公になると学校のイメージダウンに繋がると思った”や“校長先生があと1年で定年退職を迎えるため、最終年にいじめ問題が起きたことを上層部や世間に知られてしまうと校長先生に申し訳ない”など学校の公的イメージを損なわないようにしたいという隠蔽体質や校長先生などのキャリアに傷を付けてはいけないのような年功序列的思考のために子供たちが我慢をしなくてはいけないというのは言語道断だ。
現在、いじめの種類も多岐にわたり、その実行方法も複雑化しているため、きちんと先手を考えながら動かないと取り返しのつかない事態に陥ることがある。
そして、社会の基本と言われている“報・連・相”がこれらの問題のエスカレートや複雑化を生む可能性があるのだ。
私がいじめの対処法として提案するなら“いじめ発生時の初期対応と児童・生徒に対するカウンセリングの強化”だ。
これは私が自己分析をした情報や事例などを基に考えたことだが、いじめが発生する原因として“子供たちの嫉妬心”や“社会的パワーバランス”など自分の立場が社会においてどういう立ち位置なのか、そのコミュニティにおいてどのような立ち位置なのかなど自分軸で考えた結果、いじめなどに発展しているケースが多い。そして、現代では子供たちの競争力が以前よりも強くなってきたこと、通信機器やネット環境の発達により匿名性が上がった、他人に簡単になりすませるなど加害者が無関係の第三者に責任を押しつける事が簡単になるという構図がある。そして、これからはICT教育の本格導入が進んでいくことで子供たちはいじめる為の手段が増える。そのため、今までのような管理体制ではいじめを防ぐことは出来ない。
また、現在は同じ生活水準の子供がいじめの被害に遭うことも多いが、被害者側と加害者の力関係が違う事例も多く、対応を間違えるといじめが差別や偏見の温床として作用してしまい、いじめがエスカレートするだけでなく、将来的な価値観や思想観の形成に影響が出てしまう可能性もある。
最近、これらの本質や実態等を調べていて感じることの1つとして“幼少期からの人格形成”がある。
これは、子供たちが幼少期から相手と“友達になりたい”、“仲良くなりたい”という意思表示をする際に相手から断られ続けると力を使ってでも仲間に引き込もうとすることもある。私はこのような行為が繰り返されることでいじめの卵が出来てしまう可能性があるのだ。
そして、多くの子供たちはいじめの卵が出来ても精神発達が進むことで適切な関係構築を学ぶことが出来て、新しく習得した事を実行することでこれらの因子が小さくなっていくが、子供によっては失敗体験が蓄積されてしまうと成功体験をしても上手く精神発達に活かす事が出来ないことも多い。その理由として挙げられるのが、“判断基準の普遍化”だ。多くの子供たちは教えられることの多くが社会の常識や一般教養として教えられるだけでなく、“これだけは知っていないといけない”のようにあたかも“これくらいは知っていて当たり前”という風潮を植え付けることで子供たちの自己肯定感や自主性などを下げてしまう行為に繋がることも懸念される。
私はいじめが起きるのはこれらの普遍的教養や思考も影響しているように感じる。そして、個人が生まれ育った環境と周囲との環境を比較して優劣を付けることで、自分の方が“優れている”,“劣っている”のように自分で自分を過小評価してしまうようになる。
その結果、その子がいじめを受けると過小評価が更に追い打ちをかけ、その子の精神を追い詰める一端になってしまう可能性もあるのだ。
このように子供たちが見ている世界観と大人が見ている世界観は違っていることもあり、個別認識もずれが生じている事もある。
まずはお互いに尊重できるような環境整備が急務であり、考え方の違いをどのように受け入れるべきなのかを幼少期から反復的に教えていくことが大事だと思う。
これらのカリキュラムの早急な検討と適材適所に必要なタイミングでの導入を求む。
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