第3話:精神発達上の指導強化の必要性

 私は悲劇が繰り返される理由の1つに“幼少期からの”生活環境“や人間関係”があると思っている。


 その理由として、現在の個別認識と私が未成年だった頃の認識があまり変わっていないように感じるからだ。


 例えば、いじめの問題に対する問題意識は私が小学校の頃と全く変わっていないのではないか?と思うほど変わっていない。


 まず、“人をいじめることが正しいことなのか?間違ったことなのか?”という質問に“友達がやっているからやってしまった”や“仲間はずれにされたくないからやってしまった”など子供たちの判断する基準が“友人など自分以外の人がやっていたからやってしまった。”という他責思考を持った状態で行っていることに疑問を感じることもある。


 そして、私の頃は容姿蔑視や家庭蔑視など見た目や家庭環境からいじめに発展する事が多く、ほとんどは遊び半分でやっていた印象が強い。


 しかし、現在は容姿蔑視や家庭蔑視など私の時代に合ったことに加えて、経済格差等が顕著になっていることもあり、いじめというセクターがかなり細分化されているような印象だ。


 最近、発覚したいじめ事件の発生経緯から対応経緯などを全て見たが、私の頃と何も変わっておらず、相変わらず自己保身的心理や他責思考が色濃く残っているため、これでは子供たちが他責思考を持つことには違和感を覚えない。


 そして、いじめが起きたとしても先生などに相談をする事が出来ないだけでなく、被害を受けた児童・生徒は“先生に言ったところで、大人に言ったところで何もしてくれない”という心理を芽生えさせている事から自責思考が強くなり、自殺(もしくは未遂)や不登校につながっているのだろう。そして、加害児童・生徒も「自分はやっていません。最初に始めたのは○○君・さんです」という自分がやったことを別の人に責任転嫁をして、自らのやったことに対して反省できない子供が多いのも事実だろう。


 そして、今はデジタル化の時代になり、小学校などではICT教育のスタートも順次進んでいる事から更に指導を強化しなくてはいけないと思っているし、町田市で起きた事例を含め、デジタル機器の利用の在り方が問われている。


 実は現在の高校生以下はガラケーと言われる通信機器を含めたデジタル機器が普及し始めた頃に生まれている子供たちがほとんどで、小学生以下はスマートフォンなどの高機能電子機器が普及し始めた頃に生まれた子供たちであることから、生まれた時から一緒に育ってきた子供たちが多い。


 そのため、これらの機器を用いることは私たちの世代よりも気軽で、警戒心が薄いことの方が多いだろう。そして、ネット上にはいろいろな情報が発信されており、それらの情報から必要な情報を抽出することやインフルエンサーと言われる社会的影響力の高い人たちの行動や言動を模倣する傾向もあり、私の子供時代からするといじめなどの構造はかなり複雑化の一途を辿っているように感じる。


 そこで、私は精神発達上の指導の強化を進めなくてはいけないと思ったのだ。


 まず、いじめの発生件数は年々増加し、その発生状況なども多岐にわたっている。そして、現在はスマートフォンの保持開始年齢が低年齢化しており、親のフィルタリングなどを活用して特定のワードを利用すると親に通知されるなどかなり子供たちの監視強化は進んでいる。しかし、多くの親はスマホを持たせる目的が“防犯のため”や“塾などで遅くなることがあるから”などかなり抽象的な目的が多く、最近増えてきているのが“子供が仲間はずれにされないように”や“友達に合わせるため”など子供が友人や同級生と同じ位置に立たせないといけないという使命感を持ってしまっている家庭も多い。


 日本というのは“みんな同じでなくてはいけない”という協調性を重視する国民性があり、自分と違う人を好むことはないし、いじめの発生頻度が高いのも自分が正しいと思っているからだろう。


 その価値観などは大人から子供に伝染し、子供たちも大人が嘘をついて逃げていることを良いことだと認識していることや大人がハラスメント行為をしているから自分たちもいじめをしても良いという考え方が芽生えてしまうのだ。


 そして、現在は子供たちの指導と暴力の境界線の判断をすることが難しく、叱って指導するだけで“パワハラ”と言われることや“喧嘩を止めなさい”と先生が仲裁に入って腕を掴むと“先生に暴力された”という言葉を発されるなど先生と児童・生徒の立場が完全な形勢逆転を物語っている。


 このような状況では子供たちに適切な指導をして、個々で自己判断をする力を付けないとこれらの連鎖は断ち切れないし、場合によってはきちんと指導しないとエスカレートする可能性もある。


 これらの問題点は子供たちを甘やかしているとは思っていないが、これらが長期化することで本人たちの大人に対する視点や対応法が複雑化していき、自分たちを優位に進めるためにいじめをしても人のせいにすることで責任を逃れることを覚えてしまう可能性がある。そして、その考え方が社会人になって“上司に叱責されたから会社辞めます”のように自分を認めてもらえなかったからそこから身を引いて自分が認められる場所に逃げるという癖が付いてしまうのだ。


 私はこういうことがここ数年顕著に現れているように感じるのだ。特に小学校高学年以上になると新しい世界を体験したいと思う子供も増えることや周囲に後れを取りたくないと思う子供が増えることで過剰な競争心が芽生えて、嘘をついてでも相手を陥れようという心理が働く。これは“他者比較”のきっかけにつながりかねない行動心理の1つだと思っているし、このような行動を芽生えさせるきっかけが雑誌モデルさんや女優さんなどテレビに出ている人に対する憧れや同じようになりたいという希望・願望の表れなら尚更気を付けないといけないと思うし、そういう心理になるのは理解出来るが、自分の価値観を相手に押しつける事は違うだろう。


 そして、現在も色濃く残るのがルッキズム(容姿蔑視)の問題だろう。特に小学生になると個人差が顕著になり、身体の成長が早い子と遅い子に分かれていく。そして、精神発達も早熟型と晩熟型に分かれるなど個人差が現れてくるため、これまで以上に個人のケアが重要になってくる。


 私はこの年齢からきちんと“あなたはあなたしかいないのだから自信を持って歩みを進めて欲しい”という声をかけられる環境の整備が必要になるだけでなく、“自分と同じ人は1人も居ない”という相互尊重の大切さを教える必要があるだろう。


 これは私が実際に経験したことだが、自分が小学生の時、身長が学年を重ねる毎に伸びていった。しかし、当時は小学生の段階で160センチを越えている人は少なく、自分の学年には数人しかいなかった記憶がある。


 しかし、身長が大きいと言うだけで差別やいじめを受けていた子がいた。その子は自分と並んでも約20センチは違っていたが、性格は優しく、誰からも愛される子だった。しかし、ただ“背が高い”というだけでいじめを受けていたため、当時から違和感を覚えていた。


 現在は小学生でも体格差が顕著になっているケースが多いうえに第二次性徴が始まる年齢も低年齢化しており、これらのリテラシー教育の適性時期を判断する事が難しい状態になっている。


 これもまた社会的不安要素だと思っていて、よくあるケースとして“背が高い・低い”など容姿でマウントを取ろうとする子や“痩せている・太っている”といった体型など個人のパーツでマウントを取ろうとする子、着ている服でマウントを取ろうとする子など他者比較との因果関係が強い心理行動が増えている背景にやっている側は優越感を、やられている側は劣等感をそれぞれ植え付けられる形になっているのは言うまでもない。そして、そういう比較をするのも自分が劣等感を感じないように自己防衛をしている事が考えられるのだ。

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