02 楽器なんか ①

 まなざしには質量がある。


 視線、という言葉が示すとおり、それはエネルギーを持った粒子の波なのだ。誰しも、自分の視野の外から、人に見られていることを直感した経験があるだろう。それが、まなざしは質量を持つという何よりの証拠だ。


 いや、たわ言なのはわかっている。目は単に光を受容するための器官でしかなく、何かを発するような機能は備わっていない。俺はこれでも理系だから、その辺はわきまえている。


 つもりなのだが……。なら、俺がいま背中に感じたこの重みは、どう説明すればいいだろう。


「藤坂先輩!」


 駅前のベンチに掛けて待つ俺の元に、駆けて来たのは修善寺椿子だった。


 バンドを組むことが決まった翌々日の放課後、俺たちは一年生の楽器選びに付き合うことなった。学校にあまり大きなお金を持っては行けないので、一旦帰宅してから現地集合という流れなのだが、楽器店の場所がわからない彼女のために、俺だけこうして迎えに来た、というわけだ。


「お待たせしてすみません」


 肌の白い顔がほんのり上気している。


「いや、いま来たとこだから」お決まりの文句を述べて立ち上がる。「じゃあ行こっか」


 駅前の、若者に人気なコーヒーショップと、百年も営業を続けているような商店とが入り乱れた通りを、俺たちは歩いた。楽器店までの道のりはほぼ一本道で、まっすぐ行くだけで着くのだが、歩くとそれなりの距離がある。女の子の歩幅に合わせるなら、なおさら時間がかかるだろう。


 俺はわりと会話がないならないで平気なのだが、修善寺はそうでもないようだった。そわそわと落ち着かない様子で、口を開きかけてはつぐんでいる、ように見える。きっと、音楽のことを話したくても知識が足りないし、お互いのことについてもほとんど知らないし、要はきっかけが見いだせないのだ。


「楽器を買うお金は持ってきた?」


 さりげなく訊いてみた。


 ギターやベースを買うというのは、当然安い買い物ではない。菊井いわく、「最低でも五万は持ってこい」とのことだったが、高校生にとっては大金にあたるそれだけの額を、二人とも用意できるのかと俺は心配していた。


「はい!」修善寺は、主人に尾を振る忠犬のように応えた。「ちゃんと持ってきました、二十万円!」


「そっか、にじゅ……え?」


 聞き間違いか?


「ほら、ここにちゃんとあります」


 修善寺は鞄から黄色い封筒を出して中身を見せた。


 札束だった。


「うわ、こんなとこで出さなくていいから!——大事にしまっておいて、ね?」


 大人しく従って封筒を戻すのを見守りながら、俺は思った。もしかして、いいとこのお嬢さんか? と。


 考えてみれば、修善寺椿子という名前は字面からしていかにも格式高そうだ。彼女の所作もどことなく育ちの良さを醸している、気がするような、しないような……。


「いえいえ、ごく一般の家庭の生まれです」思ったままのことを訊いてみると、彼女は否定した。「確かに、お父さんの実家はそこそこ由緒ある家みたいなんですけど、お父さんが次男だったことと、独立心の強い人だったこともあって、わたしは普通の会社員の娘なんです」


 そういうこともあるのか。


「じゃあそのお金はいったいどこから?」


「おばあちゃんが出してくれました。お父さんのお母さんにあたる人です。お琴の先生をやってるおばあちゃんに、楽器を買いたいって言ったら、二十万円ぽんと出してくれました。——お父さんが知ったらいい顔しないと思いますけど」


 最後の一言は少し不機嫌そうに呟いた。


「お父さんにも、体面とか矜持とかいろいろあるんだよ、きっと」


 俺が言うと、修善寺は首をかしげた。


 なんとなくだが、自分の家庭のことは親に頼りたくない父の気持ちが、俺にはわかる気がした。いや、そうやすやすと二十万円も子供に渡されるようでは、まあ困るか。


 しかし、琴を教えているというおばあちゃんが、ロックをやりたいという孫の願いに賛同するとは……ん?


「まさかとは思うけど」いやな予感がする。「おばあちゃんに、その買いたい楽器がエレキベースだっていうのは——」


「言ってないです」彼女は平然と言ってのけた。「でも、嘘をついたりはしてないですよ」


 てっきり、実直で真面目な性格なのかと思い込んでいたが、存外にアグレッシブなようだ。


 修善寺は、その大きな目を細めた。


「わたし、手段は選ばない主義なんです」

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