第40話「パン2」
「ごちそうさまでした」
「はい」
照れるように小さく返事をした陽子さんに、
「もう一人でパンを作れるんだね」
「うん。一通りの手順は教わりましたから。たまに焦がしちゃったりするんですけどね。それより、絵の方はどうなんですか?」
「ああ、もう少しだよ。あとちょっとで完成する」
ただ描くだけなら十時間やそこらで終わるけれど、どうしてもまだ必要な欠片が見つからないのだ。
ジグソーパズルの一つが欠けているのと同じである。
「どういう絵なんですか?」
「それは秘密だよ。でも、ぼくと陽子さんが出てくるんだ」
「そういわれると照れくさいですね」
「だって、ぼくの横には陽子さんにいてほしいからさ」
「ちゃんと見せてくださいね」
そう言って念を押すように、彼女が目を細める。
会ったばかりの頃とは違い、彼女はすっかり感情表現を表に出すようになっていた。
ころころと変わる彼女の表情は、どれも愛おしい。
「もちろん。なんなら
「毎日見に行きますよ、そしたら」
「そうしたら、あの時みたいに話しかけてほしい」
そこで彼女は当時を振り返るように、
「勇気、必要だったんです。見ず知らずの人にねだるなんて」
「それはよく伝わったよ。緊張してたもんね」
ぼくの意地悪に、彼女も怒った真似をして笑う。
彼女は瞳は二度と針になってぼくを射止めない。
けれど、彼女の魂がぼくを羊水のごとく包み込むのだ。
「田辺さんのおかげでお母さんの臨終にも立ち会えました。もう少し遅かったら間に合わなかったんです」
「最期、何か言ってた?」
首を振って、
「ううん。でも、目を見てくれました」
「そっか。よかったね」
ふいに沈黙が降りたのを見計らって、
「それと、これ」
ぼくは椅子の後ろに隠していた、リボンの付いた紙袋を手渡した。
「遅くなったけれど、クリスマスプレゼント」
「え?」
彼女は予想していなかったというように、驚きの表情を見せる。
たじろぎながら受け取ると、
「開けていいですか?」
「うん」
子どものように目を輝かせながら、丁寧にひもをほどいて袋を開ける。
ハンドクリームとヘアミルクを手に取って、
「わあ、嬉しい」
そこでチラリとこちらを見遣って破顔した。
牧田さんに選んでもらったとは言わないけれど、なんとなしに理解したような気がした。
「つけてみますね」
彼女はクリームを手の甲に塗り伸ばして、匂いを嗅ぐ。
「良い香り。柑橘系の匂いだ。ありがとうございます」
「どういたしまして」
次に陽子さんはヘアミルクを手に取ったかと思えば、パッケージを隅々まで観察しているのが可笑しい。
「トリートメントみたいなものらしいよ。髪につけるんだ」
「ああ、そうなんですね」
合点がいったように頷く。
それから彼女は得意げに、
「ちょっと待っていてくださいね」
そう言って奥へ下がり、すぐに戻ってきた。
「私も同じで、渡しそびれちゃったんです」
ぼくもまた、贈り物が貰えるだなんて
彼女を悲しませてしまったイブだから。
それにここへ招待されてパンを振る舞ってくれるだけで、ぼくは充分すぎるほど満足していたのだ。
「開けてくださいよ」
彼女に突っつかれて、厚紙の箱をいそいそと開ける。
陽子さんがぼくに何をくれるのか想像もつかない。
出てきたのは、木製の円柱に載っている硝子の美しい月のランプだった。
満月の丸い形をしており、海の模様もきちんと描かれている。
「月だ」
ぼくが言うと、
「はい。田辺さんと見た月です」
両手に収まる小さな星は、きっと電池を入れるかコンセントに繋ぐと明かりが灯るのだろう。
太陽があってこそ輝くあの冷たい球体とは違い、自ら発光する月だった。
「それ、オルゴールなんですよ」
「えっ?」
一見したところそうには思えなかったが、側面の下部を覗くとたしかにゼンマイがあった。
「よし、聴いてみよう」
キスをした夜のごとくそれを回すと、音楽がゆっくりと流れ始める。
穏やかな音調で、どこか切ない音色だった。
何かのクラシックかもしれないけれど、そんなことは些細な話だ。
芸術に題名や詳細は要らない。
ただ自分の感性に任せて、そこへ飛び込めばいいだけのこと。
ぼくたちはしばらくの間、黙って耳を傾けていた。
音符も読めないくせに、なんて美しい旋律なのだろう。
陽子さんの声にも似た悲しくて透明な、それでいて恍惚な音色……。
「ありがとう。嬉しいよ。こんな綺麗な音楽、生まれてはじめて聞いた」
「大袈裟ですよ。でも、どういたしまして」
「これはぼくの宝物だ」
彼女に出会えて本当に良かったと思う。
モネの絵を見にきたぼくと、絵はがきを買いにきた陽子さん。
一分でもタイミングがずれていたら、ぼくたちは出会わなかっただろう。
「田辺さんとなら抜け出せそうです」
「えっ?」
「毎秒十一キロメートルです」
そういえばそんな話もした。
地球の引力から離れるために必要なスピードだ。
彼女はあのとき、不幸から逃れるにはどれほどの速度がいるのかと訊ねた。
「二人なら、どこまでも行けるさ」
ぼくが言うと、
「はい」
パンの香り。
月のオルゴール。
そして陽子さんの笑顔。
ああ、ぼくたちは生きている。
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