第39話「パン」

 年明けの一月。

 冬休みが明け、講義が始まっていた。

 とはいえ必要な単位はほとんど取っているので、履修しているのは卒論を書くのに必要なゼミだけである。


 その日もマフラーの雪を払いながら地下鉄の座席に座ると、ガウンの中でスマホが鳴った。


 見ると、陽子さんから喫茶店に来れないかというお誘いだった。

 正月に新年の挨拶をラインで済ませたけれど、実際に会うのは葬式以来だ。

 ぼくの方から連絡を寄越さなかったのは、彼女には時間が必要だと思ったからである。


 こうして陽子さんの方から連絡をしてくれたのは、気持ちの整理が付いたということなのだろう。


 ぼくは次の駅でホームへ降りて、向かいのレールにやってくる逆方向の電車へすぐに乗り込んだ。

 別の路線に乗り換えてバス停に着くと、時刻表の看板は氷に覆われている。


 手袋越しにそれをガリガリと払うと、まさか葬儀場のように故人の俗名が出てくるわけもなく、喫茶店の最寄り駅へ向かうダイヤが並んでいた。


 次のバスは三十分後だ。


 その数字にどこか懐かしい手触りを覚えて思案すると、自殺未遂をした陽子さんに会いたいと伝えたときに待たされた時刻と同じことに気付く。


 薬物の過剰摂取で胃の洗浄を受けた彼女が、ぼくと会うことを決心するに要した時間である。


 彼女はあのとき、ごめんなさいと漏らした。


 切迫した終焉に耐え切れずに月へ行こうとしたこと。

 ぼくや牧田さんを裏切ったという自責の念。

 そして氷点に浮かぶ月の下へ呼び出す詫言たくげんの意。


 様々な感情が一絡ひとからげにされたゆえにこぼれ出た、陽子さんの気息きそくだ。


 それらすべてが、今では遠い昔の出来事に思えた。

 

 そうこうしているうちにバスに乗降して、一度だけ歩いた道のりを辿る。

 それは牧田さんに「せめて返事だけでも返せ」と叱られて、まるで遅刻をした子どものようにせわしなく両脚を動かした道程どうていだ。


 死んでしまえ。

 ざまあみろ。

 

 でも、会いたい。


 ぼくだって当時、両手から溢れ落ちるほどの感情が胸に渦巻いていた。


 プラネタリウムの星々に見下ろされているときに自覚した陽子さんへの愛情は、もしかするとこのときから秘めていたのかもしれないと今さらになって思う。


 それを認めたくないがあまり、過去の自分はつらつらと言い訳を並べていたに過ぎないのだ。


 そんな思いを馳せているうちに、喫茶店に辿り着く。

 しかし、雪のように白い扉には「Closed」の札がかかっていた。


 呼ばれたのはいいが、お店が閉まっているのは予想外だ。

 どうしていいか戸惑うも、数回ノックをしてから恐る恐る開けてみる。


 陽子さんがぼくに気が付いて、


「いらっしゃいませ」


 と、晴れやかな歓迎をしてくれた。


 それでもまだ事情が飲み込めない。


「どういうこと?」


 ぼくが訊ねると、


「今日は定休日なんです。だから、約束を果たそうと思って」


「約束?」


 そこで彼女は大げさに驚いて、


「忘れたんですか? お見舞いに来てくれたあと、約束したじゃないですか」


 思い出した。

 ぼくは陽子さんの作ったパンを食べたいと言ったのだ。


「うん、うん、覚えてるよ」


 狼狽する自分に、彼女は子どもに呆れるように「もう」と笑った。


 ぼくが席に着いてから、


「これから焼きますね。飲み物は何にしますか?」


「それじゃあ、紅茶を」


 奥へ下がってエプロンを外してから、陽子さんは紅茶を出してくれた。


 喪服に身を包んだ背徳的な美しさはもうない。

 その代わり、十代の女の子らしい柔和で幼いあたたかみを纏っている。


 その雰囲気に安堵しながらも、開店していないお店にぽつんと座っているのは奇妙な感覚だ。


 けれど、甘いパンの香りを独り占めするかのようで、ぼくは嬉しかった。

 それは陽子さん本人を、ぼくが独占している気分でもあるから。


 十分ほど経ってから、彼女はトレイを両手にぼくの席へ来た。


「はい、どうぞ」


 出てきたのはクロワッサンとクリームパンだ。

 どれも茶色の焼き色がきれいで美味しそうだ。


 それぞれ半分に切って、二人で食べ合う。


 クロワッサンは薄く卵黄を塗りつけているのか、表面に光沢があった。

 クリームパンはまん丸の可愛らしい形だ。

 そのおだやかな曲線が、ぼくと彼女の心の棘が削られたことを暗示しているようで微笑ましかった。


「美味しいよ」


「良かった」


 彼女はもぐもぐと飲み込んでから、


「初七日も、仏壇の購入も色々と済みました。ほとんど叔父さんがやってくれたんです」


「うん。落ち着いたみたいでぼくも嬉しいよ」


「はい。すこし塞いでた時期もあったんですけど、どうにか立ち直れました」


「それにしても定休日にぼくだけなんてすごいね。陽子さんが頼んでくれたの?」


「はい。店長にお願いして開けてもらったんです」


 それからアッと思い出したように、


「それと私、製菓学校に願書を出したんです」


 彼女はそう言って、えっへんと威張るように胸を張る。


「いいね。パン職人だ」


「まだですよ。今月末に入試があるんです」


「ぼくと同じだ。卒論があるんだよね」


「じゃあ一緒に頑張りましょう」


 一緒。

 そんな言い草は、はじめて会った彼女からは到底出てこなかったものだろう。


 ぼくは厭世主義や諦観主義を捨て、生きようと思った。

 陽子さんもまた、死を見届けて前へ進もうとしている。


 歯車はひとつの齟齬そごもなく嚙み合って、するりと回っていた。


 あたたかい紅茶をすすって、残りのパンを頬張る。

 まだ熱を持っているふわふわのパン生地から、甘いカスタードクリームが出てきた。


 陽子さんが、ぼくのためだけに作ってくれたのだ。

 そう思うと胸が高鳴って仕方ない。

 これ以上に美味しいパンは、世界のどこを探したって存在しないとぼくは本気で思う。


「私、田辺さんに出会えて良かったです。あの時、美術館で……」


「ぼくも陽子さんがドジで助かったよ。勝手に絵はがきを買われちゃ困るからね」


 そう言ってぼくたちは笑い合った。

 緊張も、警戒心も、悲しみもない。


 お互いに穏やかで、たわいのない話でも、それどころか何をしなくたって笑みがこぼれてしまうような心地だった。


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