第38話「通夜2」

 陽が沈んだ十八時前、市営バスが斎場前の停留場に着いた。


 街路樹には煌々たる明かりが明滅している。

 それを仰いで、ぼくはそれを延命措置に似ていると思った。


 本来灯るはずのない暗闇に、人工的な装置によって無理に光らせるのだから。

 太陽が眠れば、木々は夜の闇を纏うのが道理だというのに。


 そして、それらはもう、明日になれば撤去される運命である。


 慣れない革靴に足を取られそうになるも、歩を進めていくと、葬儀場の入り口には三枚のパネルが雪に凍えていた。


 そのうちの一つに


「故 柿崎 郁江いくえ 儀 葬儀式場」


 という看板がある。


 そこでぼくははじめて彼女の名前を知った。

 そして自分が絵の具を溶かしたりベッドに横たわっていた間に、陽子さんを含めた遺族が様々な手続きを進めていたのを痛切に感じる。


 案内に従って二階のホールへ行くと、こじんまりとした狭い式場の中に数人の男女が立っていた。


 家族葬ということで、通夜は親類が大半だ。

 父さんのときは会社関係の人間で溢れ返っており、式場のそこかしこに二メートルを超える背の高い献花が並んでいたのを考えると、ずいぶん侘しい印象を受ける。

 

 ぼくは斎場の受付で香典袋を渡し、名前を記入する。

 まさか美術館で出会った女性の故人を偲び、インクを滲ませることになるとは思いもよらなかった。


 絵はがきを消したぼくに、果たして参列する資格はあるのかと不安に感じるのも事実だ。

 

 正面には献花に囲まれた遺影があり、見たことのない笑顔を湛えていた。

 病院のベッドで痩せこけて、息も絶え絶えにしていた病人しか知らないぼくにとって、まるで別人のような感懐だ。


 祭壇は階段状になっており、故人を収めた棺の横に腰を下ろせるスペースがある。

 そこに、故人のそばに座って俯いている陽子さんがいた。


 固い革靴にくるぶしを痛めながら、彼女に近付く。

 陽子さん。

 そう声をかけようとしたぼくは足を止めた。

 

 彼女はその横顔に、喪失の美しさをこぼしていたからだ。


 黒のワンピースにジャケットを重ねて、肌色が薄く透けているストッキングの脹脛ふくらはぎを膝下のスカートから覗かせている。


 ぼくはその肌に触れたけれど、ナイロン越しに見たのははじめてだ。


 足元は皺ひとつないパンプスがつま先に照明を浴びて、なまめかしい光沢を浮かばせていた。


 胸には喪主を意味する白い花の喪章が咲いており、冬に花弁かべんを開く矛盾の象徴である。


 褪めた顔色が、白い指先が、黒を基調とした服装とあいまって、浮世離れした艶美を醸し出していた。


 成人式よりも前に和服を身に纏うだなんてやっぱり寂しいから、西洋式の礼服でよかったのかもしれない。

 

「陽子さん」

 

 彼女は顔を上げて、

 

「来てくれたんですね」


「うん」


「母の顔、とても安らかでした」


 陽子さんは落ち着いた様子で言った。

 その目はもう腫れていない。


 安らかというのは死顔ではなく、死化粧が施された相貌そうぼうを指しているのだろう。

 父さんの時もそうだったけど、亡くなったあとの方がよっぽど綺麗な顔をしているものだ。


 ぼくは線香を上げ、死人の顔を覗く。

 陽子さんの言う通り、心地良さそうに見えた。

 病に冒され、痛みにもだえ、苦しみながら死んでいったとは思えないほどに。


 この人も、ようやく楽になれたのだろう。


 それにしても、殺してほしいと口頭で伝えたその翌日に息を引き取るなんて不思議だと思う。


 娘の手を汚さないように、自分の言葉を取り消すかのように、急いで旅立った気がした。


 彼女もまた、明日の昼にはその肉体を焦がして、雪のように白い骨をあらわにするのだろう。

 そうなれば二度と、その頬や額に触れることは叶わないのだ。


 この女性には結局、謝ることができなかった。

 ぼくが絵はがきの文面を消したせいで、不要な苦悩を与えたのは間違いない。

 陽子さんがそうしたように、ぼくは恨まれてもおかしくないのだ。


 帰り際、ぼくは陽子さんに外まで送ってもらった。


「来てくれて、ありがとうございます」


「いいんだ」


「私、今でも正解がわかりません。もしお母さんがもっと永く苦しんでいたら、手をかけていたかもしれないんです」


「ぼくもわからない。でも、そうしてほしくはなかったよ」


「変な話、今日でよかったのかなって思います。これ以上、病院で苦しむ姿は見たくありませんし、お母さんもやっと天国へ行けたから……」


「そうだね。これ」


 ぼくは絵はがきを手渡した。


「いつの間に……」


「読んでみてよ」


「えっ?」


 文章はあなたが消したはずでしょう、という怪訝な表情を彼女はした。


 それでも言われた通り、裏返す。

 そこで彼女は「あっ」と声を漏らした。

 ふわりと、綿が口元からぜた。


 ありがとう。

 陽子はおいしいパンをつくってね。


 絵はがきには、そう書かれていたのだ。


 彼女はぎゅっと唇を結んで、目を細めた。

 音もなく、ゆっくりと涙が流れる。

 朝からずっと張っていた気が緩んだように、温かい雫がとめどなく溢れた。


 ぼくは白いハンカチでそれを拭う。

 彼女はキスをせがむように顔を上げて目を瞑り、されるがままにしていた。


 寒さに鼻先を真っ赤にしながら、陽子さんはもう一度絵はがきに視線をやって、


「お母さん」


 と呟いた。

 消えてしまいそうな、けれど思いのこもった声音で。


 呪詛じゅそはぼくが消した。

 そうして母親は、娘に感謝の言葉を書き送ったのだ。


 病人は陽子さんに殺人を懇願したその時まで、それがどれほど娘を傷付けるか、はっきりとは理解していなかったのかもしれない。


 死の間際で真っ当な思考も働かないのだろう。

 ただただ、「殺してほしい」と思いのたけを打ち明けたに違いない。


 しかし動転する陽子さんを見て、お母さんは後悔したのだ。

 一度目の危篤にあたって、娘が自殺未遂を図ったのを知っているかはわからない。


 ただ癒しがたい傷を与えてしまったことには気付いたはずだ。

 だからこそ、もう自由の利かないからだを奮い起こし、最後の最後にこれを書いた。


 ありがとう。

 ぼくの父さんが贈ってくれた、同じ言葉を……。


 それは自分の人生を肯定する言霊であり、遺される家族の胸にぽっかりと開くであろう穴を塞ぐための呪文でもある。


 命がけの、クリスマスプレゼントだった。


「宝物だね」


 ぼくが言うと、


「うん、うん」


 陽子さんは絵はがきを抱きしめて、静かに泣いている。


 細雪ささめゆきの降る、寒いクリスマスだった。


 

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