第37話「通夜」
朝の七時過ぎには訃報を聞いて駆けつけた親類が集まった。
どれも遠縁らしく、陽子さんとの関係がよそよそしいことは
酷い話で、中には陽子さんの母親が病に臥していたことすら知らない人間もいた。
陽子さんや病人が近況を伝えていなかったせいもあるだろう。
どちらにせよ親戚付き合いが希薄で、それが陽子さんの寄る辺なさを感じさせる一因になったのはいうまでもない。
そのような中で、喪主は陽子さんでも、葬儀の手配や進行は叔父が買って出た。
未成年の彼女にその役目を負わせるのは、あまりに酷だろうとはぼくも思っていたことだ。
慌ただしい中で、唯一親縁ではないぼくは廊下に突っ立っていた。
会釈をする関係でもないので、彼らはぼくの横を通り過ぎるときには一瞥を投げてよこすだけだ。
事情を見守るというには、あまりにも孤独で手持無沙汰だった。
実際こういうとき、どう動けばいいのか見当もつかない。
騒々しい大人たちの動揺から隔離され行き場をなくしていると思えば、ぼくは布をかけられた死人と同じだ。
いや、むしろ死者には安寧という居場所がある分、ぼくのほうが打ち棄てられた気分である。
しかし、それ以上に遣る瀬無いのは陽子さんに他ならないと、その横顔を遠めに見遣るだけで痛感した。
彼女はもう泣いていない。
ただ医者や叔父の話に頷いているだけだ。
髪を耳にかけているので、耳たぶの産毛が義務的な冷めた説明に揺れているのが分かる。
陽子さんと目が合ったのは、一段落ついたのか、周りの男性が彼女から離れたときだ。
いくぶん落ち着いた彼女が近付いてきて、
「ほったらかしにしてごめんなさい」
「ううん、気にしないで。大丈夫?」
「はい」
目が合って陽子さんが歩み寄ってくれるなんて、まるで喫茶店に訪れたときのようだ。
あのとき彼女は笑っていたけれど……。
「田辺さん、お通夜に来てもらえませんか」
「もちろん行くよ」
「ありがとう。あとで連絡しますね」
彼女はクリスマスのたびに命日に苦しむのかもしれない。
ぼくの父さんと同じように、冬を越せずに春を迎えられなかった病人のことを、雪が降ってイルミネーションが輝くたびに、思い出すのかもしれない。
そう考えながら、ぼくはいったん自宅へ戻った。
朝帰りをするなんてはじめてのことだったから、新聞を片手にコーヒーを飲んでいた母親はずいぶんと驚いた様子だった。
コーヒーとパンの香りが、家に帰ってきたという安堵を与える。
まだ非日常に片足を踏み入れているというのに。
日にちが日にちなので、母さんはむしろ中学生が人の恋路をからかうような微笑さえ浮かべていたけれど、
「母さん、礼服ってある?」
と訊ねると、母さんは途端にギョッと目を丸くした。
すぐに表情を引き締めた彼女は、何も聞かずに黒のスーツを出してくれる。
「焼香の仕方はわかるよね」
「うん」
父さんの着古した喪服はタンスのにおいがして嫌だったけれど、これ以外どうしようもない。
渡しそびれて冷え切ったクリスマスプレゼントの袋を置いて、ぼくは一息つく。
ようやく終わったのだ。
そしてこれからはじまるのだ。
絶え間ない喪失の苦しみが。
煙草の煙を前髪に浴びてから、尿意を催してトイレを向かう。
家では立ってすることは禁止されているので、大小関わらず座る習慣がある。
暖房の入った便座のぬくもりを感じながら、ぼくは陰茎を見下ろした。
それは、たしかに海の中に
隔たりはもちろんあったけれど、その体温はたしかに感じ取れた。
陽子さんがぼくに許したことは、これ以上ない幸せだ。
けれど、一度目の危篤に際して自殺を図ったように、あれも一種の自傷行為なのではないかという疑念がついて離れないのも事実である。
つまり、彼女にとってぼくは刃物なのではないか。
腕や手首を切り裂いて錯乱した気持ちを落ち着ける人がいるように、ぼくも陽子さんにとってそういう存在なのではないか。
もしそうなら、これほど情けない話はない。
刃の上で踊る彼女の表情は、暗闇に慣れた目でも見えなかった。
ただ聞こえるのはどこか苦しげな
あのときばかりは、時計の音は失せていたようにも思う。
時間が止まったわけではないくせに。
ともかく、自分の
彼女の自傷を助けるくらいなら、この身なんて滅んだ方がいいとさえ思う。
部屋に戻ると、時刻はまだ八時半。
朝食を食べる気にもならないので、久しぶりに筆を握った。
牧田さんとバーへ行って堤の内情を聞いた日から進捗が止まっていたので、少し不慣れな感覚もある。
洋々と広がる春の空に、うっすらと浮かび上がる街並み。
そこに雪はなく、暖かい陽射しが降り注いでいた。
そうして身長差がほとんどない二人の男女が立っている。
空は淡い水色と煙のような雲に色を塗ったけれど、それ以外はまだ鉛筆で書いた下絵のままだ。
ぼくは消しゴムで男女の境を消して、互いに腕を伸ばすように黒鉛を引いた。
出来上がったのは、何かを見つめながら手を繋ぐぼくたちだ。
何か思いついたわけではなく、自然とそうさせたのである。
あの温もりを、忘れまいとするかのように。
そうして周囲には数匹の蝶が踊り、たんぽぽの綿毛が舞う。
構図としては、ほとんど完成に近いものだった。
にもかかわらず、どこか腑に落ちない。
それは画面がありきたりなものだからではない。
何かが決定的に足りないのだ。
しかし、その正体がどう頭を捻らせても出てこない。
スランプではなく、まだ今の自分には描けないのだと諦めて、コンクリートの乱立する街に絵の具を滑らせる。
水を多く含んだそれはすぐには乾かず、少しの間、紙面を凪いだ。
何が足りないのか。
このままでは陽子さんには見せられないし、自分を満足させることすらできやしない。
もうあの夢は見ないだろうと確信をしつつ仮眠を取ると、陽は沈みつつあった。
リボンの巻かれた袋の代わりに、薄い香典を持って家を出る。
ポケットには、あの絵はがきを入れて。
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