第36話「25日」

 温かい海の中で、ぼくは夢を見た。


 場面はいつも通り、父さんの臨終である。

 これが三回目だ。


 ぼくは父を見下ろして、今度は無茶に起こそうとは思わなかった。

 その代わり、雨のようにぽつりぽつりと声をかける。

 母さんの潮騒と混じって、この四角形の空間は様々な水に満たされた。


「お父さん。俺、どうしていいか分からないんだ」


 彼は目を覚まさない。

 うんともすんともいわない。

 

 けれど、それでも良いのだ。

 ただ、そばにいてくれるだけで。


 ぼくは父さんの顔を覗き込んで、青褪めた皮膚と新月の眼球を見つめながら、


「俺はどうすればいいの?」


 病人の落ち窪んだ頬に涙が流れた。

 それが自分の悲しみだと気付くまで、多少の時間を要する。


「説得はしたけど、だめかもしれない。陽子さんは、まだお母さんを殺そうって悩んでる。俺の知らないところでニュースになるかもしれない。そうしたら、一生会えない気がするんだよ」


 そのとき、くすぐったいとでも言うように父さんは目を開けた。

 重たげな瞼の下には、にび色に沈んだ瞳。


 ぼくの胸は、その瞳孔に突き刺された。

 声を張り上げる。


「お父さん。俺はお父さんとお母さんの子どもに産まれて嬉しいよ!」

 

 病人はゆっくりと瞬きをしながら、話を聞いてくれている。

 きちんと自分の話を理解しているだろう、尊厳の宿った瞳をこちらに向けながら。


 届いているのだ。

 ぼくの声が。


「父さんが死んでからずっと言いたくて、でも言えなかった。それを今まで後悔してて、だけど言う機会なんてないからさ」


 だから、夢の中だけでも伝えたいんだ。

 そう言いたかったけれど、喉が痙攣してうまく言葉にできない。


 それを代弁するように、ゆっくりと、お父さんの乾いた唇が動く。

 ぼくは押し黙った。

 全身に鳥肌が立つのを感じながら、息を殺して耳を澄ませる。


 父さんは一言、ぼくに言った。


 今度は聞こえた。


 ありがとうだ。

 ありがとうと、お父さんはそう言ったのだ。


 血液が冷めていく。

 正確に言えば、それは相対的な話だ。

 血が冷たいのではなく、じんわりと沁み込んでいく暖かい感情が、ぼくの魂を内包したのだから。


 それが都合の良い解釈による、夢の改変だとしても構わない。

 きっと現実でも、同じことを言ったに違いないから。


 ぼくたちは連綿れんめんと続く記憶の中で生きている。

 心の傷や身体の老化だったり、時間というものから逃れることは不可能だ。


 けれど、未来はおろか、自分が経験した過去すら、ぼくたちは触れることができない。

 なぜって、過去と現在の間には「無」があるから。

 埋めがたい空白があるからこそ、人は過去を悔やみ、過去に囚われる。


 それならいっそ、その隔たりにどのような橋をけて自分なりの解釈を施すかは、当人の裁量に委ねられるはずだ。

 それが過去を受け容れて前に進むということに他ならない。

 ぼくはそう思った。


 そして、その橋というのが父さんの「ありがとう」という言辞げんじである。


 思い知った。

 人間は、自分の言動に責任がある。

 不貞腐れたぼくは、ただ無為に煙草を吸っては自慰行為をして、大切な女性を傷付けるばかりだった。


 でも、今は違う。

 愛されたいと思って、デートに誘った。

 嫌われてもいいと思って、彼女の殺人を押し留めようと勇気を振り絞った。


 世界は無益で意味がない。

 だからこそ、人間は行動を起こして「自分」を創造していく。


 ようやく、それが本当の意味で理解できた気がする。


「こっちこそ、ありがとう。生きるよ。生きる。だから、お父さんはゆっくり休んでよ」


 一度だけ瞬きをしてから、彼はそっと目をつむる。

 それから、安心したように呼吸を止めた。


 十五時二十三分、横たわる安楽がそこにあった。

 そして二重に広がる視界の端には、やさしい色のスイートピーが花を垂らしている……。



 ――着信音が鳴っていた。

 自分のものではない。


 まだ半ば眠っている状態で、ぼくはぼんやりとそれを聞いていた。

 やがて途切れ、女性の話し声。


 肩を揺さぶられ、はっと目を覚ます。


「田辺さん、お母さんが危篤です」


 ぼくは飛び起きて、


「タクシーで向かおう」


 目尻から流れた涙を拭う暇もなかった。

 二度目の危篤となれば、可能性は低い。

 むしろ前回、立て直したのが奇跡なくらいだ。


 病院に着いたのは朝の六時頃。

 まだ外は暗く、路上にいたのは新聞配達のバイクだけだ。


「代金は払っておくから、早く行って」


 彼女は頷いてから、走って病院へ入っていく。

 支払いを済ませ、自分も病室へ向かった。

 騒がしい足音でほかの患者を起こそうが、知ったこっちゃない。


 薄暗い病棟の廊下は、適切な室温と湿度に保たれているはずだ。

 それなのに、真冬の雪路を走っているように寒々しい。

 そう感じるのは、きっと今日が最期なのだと確信しているからだろう。

 

 陽子さんの母親がいる病室の入り口には、看護師が立っていた。

 部屋に入る際に会釈をすると、看護師の方は黙って目を伏せる。

 その表情から察するに、結果は火を見るより明らかだ。


 飛び込むと、病人はすでに息を引き取ったようだった。


 かたわらには背の高い医師が一人。

 彼が死亡時刻を宣告したのだろう。

 そうして、死亡診断書に無機質なインクを走らせる。


 粛々とした面持ちで立ってはいるけれど、どこか他人事のようにも見えるのは考えずとも当然の話だ。

 医療従事者なら、患者の死など日常茶飯事だろう。


 ただ、遺族はそういうわけにはいかない。

 陽子さんは、母親の胸で泣いていた。


 ぼくの前で見せた泣き顔ではない。

 赤ん坊が母乳を探すように顔を擦り付けて、わんわんと大声を出していた。 


 そこに体温は残っているのだろうか。

 だって、それはもう血の流れていない、尊厳どころか全てを失った物質に過ぎないのだから。


 そう思うのは、冷酷なのではない。

 死とは、そういうものなのだ。

 二十四時間後には千度の灼熱でその身は焦がされる。


 あとにはもう、面影の欠片もない白い骨片こっぺん

 その虚しさも、仕方がないのだ。

 むしろ胸に開いた穴が大きければ大きいほど、愛情の深さを知ることになる。


 死人の顔には白い布がかけられているし、死顔を見ようとは思わなかった。


 ぼくは彼女が泣き終わるまで、ずっと病室の中で立ち尽くしていた。

 何もできないのではなく、それが最善だと思ったのだ。


 それにお父さんに「死んでほしい」と思ったように、ぼくは陽子さんの母親にも同じことを考えていたから、面目がないのだ。


 病人が死んでしまえば、陽子さんは自らの手を汚す必要はないと。

 だから母親の死を悼む資格なんて、ぼくにはないのだ。


 ふと、卓上の絵はがきが目に入る。

 お母さんが宝物だと言った、この絵はがきだ。


 自分の過ちを直視するのだから、目を逸らしたいのは当たり前だろう。

 文章を消したからこそ、病人はわざわざ口頭で伝える必要に駆られたのだ。


 それがどれほど母子を傷付けたか。

 どれほど苦悩を与えたか。


 それなのに、何か気になるとでもいうように注意が離れない。


 渋々それを手に取ると、表に印刷されたモネの絵が目に入る。

 ぼくの部屋にある複製画レプリカと同じもので、あの美術館にあった三種類の中で最も色彩のおぼろげな作品だ。


 見慣れたはずなのに、どこか違和感がある。

 その正体にぼくがすぐ気が付いたのは、おそらく死者の面前だからだろう。


 自分はもともと、平静な湖を死と対極であると考えて購入したのだけれど、それはどこか海にも見える。


 色濃く塗り固められた『睡蓮』ならば、風が吹いても水面を平らに維持できそうなものだ。

 しかし水彩のように淡い色調だと、そよ風でも波が立ってしまいそうな印象を受ける。


 今思えば、ぼくも陽子さんも、無意識に死というものを受容したいと思っていたのかもしれない。


 ぼくたちは死を忌避しながらも、波紋が揺れ動いて、いつかは死という避けられない問題に直視しようと意気込んでいたのだろうか。


 それはぼくが陽子さんに惹かれた経緯と重複する。

 そして彼女がぼくを好いてくれた理由とも符合するのだ。


 絵はがきを裏返した。

 一心不乱に消しゴムで作った空白を見ようと。


 驚愕した。


 ぼくがまっさらにしたそこには、新しい言葉が書き加えられていたのだ。

 筆跡は間違いなく陽子さんの母親のものに違いない。


 ろくに鉛筆も握れないのだろう。

 文字は歪んでいるけれど、それはたしかに病人の最期の言葉である。


 陽子さんの潮騒に鼓膜を震わせながら、ぼくはそっと、それをポケットにしまい込んだ。……。

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