第35話「スピカ」

 ベッドには染み一つない。

 誰から聞いたわけではないけれど、以前から吐瀉としゃ物を処理をしたのは牧田さんだと考えているし、実際そうなのだろう。


 嘔吐おうとといえば、堤の話してくれたサルトルを思い出す。

 哲学者は言った。


 物には、存在意義がない。

 空っぽなそれらに意味を与えるのは人間であり、その一環が「名称」なのだと。


 彼女が片付けたであろうこの部屋のインテリアは、たしかに陽子さんが意味を与えていた。

 だからこそ目につかない場所へ放りやる必要があったのだ。


 そうして残ったのは路傍ろぼうの石のごとく無意味なもの、あるいはどうしても捨てることができなかった必需品といったところ。


 対照的に、ぼくは美術館における数多あまたの絵画を、金額にすれば億は超えるであろう芸術品を、無意味で空虚に感じた。

 だからこそ色が剥離はくりして、どこかへ霧散むさんしたのだ。


 自分の手で遺棄いきするまでもなく、それらは思いがけないほどの速度で意味を失ったのだから。


 そしてただ一つ、丹青たんせいの光があった。


 柿崎陽子。


 それが、その光彩のだ。

 不安や恐怖、嫉妬に苦痛、それらが入り混じった混沌の海を照らす、そのあかり


 そして、ぼくがどうしても胸の中から取り除くことができないもの。


 ――片隅の街燈が気になって、 


「カーテン、閉めようか」


 ぼくが言うと、彼女がお尻を浮かす。

 それを制して自分が立ち上がり薄いカーテンを閉めると、もう外界とは隔絶された二人だけの世界が生まれた。


 LED照明の点いた、真っ暗な雪の中。


 何もできやしない男と、まさに母親を殺さんとする女の世界が、イマ・ココに。


 ぼくはゆっくりと、自分に言い訳でもするかのように口を開く。


「ぼくもね、お父さんに言われたんだ。お前が成人するまで生きられなくてごめんねって。この前のお墓参りの時に、それが原因でずっと引きずっていたんだって気付いてさ。だから、陽子さんに同じ目にあってほしくなかったんだ。本当にごめん」


「いいんです。私も取り乱してすみません」


 彼女は膝を抱えて、毛布で顔を拭う。

 乱れた前髪が愛おしい。


「ぼくは、陽子さんにお母さんを殺してほしくないよ」


「私だってそうです。でも……」


「今は延命措置を取っているって言ってたよね?」


 頷いた彼女に、


「病院にいる以上、一度始めた延命措置をやめることはできないと思う。でも、調整ならできるかもしれない」


「調整って?」


「今、お母さんは食事を摂れてる?」


「いえ。少し前から、点滴で水分を入れてます」


「なら、その量を減らしてもらうんだ。そうすると平穏に逝くことができるらしい。もちろんこれは本の受け売りだから、陽子さんと担当医の話し合いが必要だよ」


「それは延命措置と何が違うんですか? 私は無意味に寿命を延ばすのはいやです。だって不自然でしょう? 寝たきりで本人もほとんど眠っているのに、心臓だけは動いてるだなんて……」


 その通りだ。

 この世に生をけたのは、ぼくらの都合の外にあった。

 ならばせめて、最期だけでも自分でも描こうと思うのが尊厳である。


 娘に殺してほしい。

 その願い、尊厳を奪ったのは、ほかでもないぼくである。


「お母さんはたしかに苦しいかもしれない。延命治療を拒みたくなるくらい、病気に苦しんでいるかもしれない。でも、死ぬことは救済になるのかな。正直ぼくだって、お父さんに早く死んで楽になってほしいと思ったよ。でもぼくにできることは、死が早く来てくれないかと願うことじゃなくて、お父さんとの会話だったって、今になって思うんだ」


 陽子さんは黙って話を聞いていた。


「ぼくは陽子さんみたいに、お見舞いにも行かなかった。日に日に弱っていく姿を見るのが恐くて……。

 だから顔を見せてあげている陽子さんは立派だよ。陽子さんだって、お見舞いに行くのは気が重いでしょう? 美術館ではじめて会った時も、公園で別れた時も、後ろ姿が悲しそうだったよ。

 でも、毎日顔を見て会話をしてきたんだから、陽子さんはやるべきことをやったと思う。だからこそ、絵はがきの文章を消したのはぼくの過ちだったよ」


「いいんです。私が田辺さんだったら、同じことをしたかもしれません」


 彼女の吐息に、毛布のやわらかい繊維が揺れた。

 陽子さんはじっとテーブルに視線を落としていたけれど、ぼくの話をきちんと聞いてくれている。


「たとえお母さんの願いだとしても、お母さんを手にかけるなんて悲しいよ」


「じゃあ私は、お母さんが亡くなるまでずっとそばにいてあげたらいいんですか」


「うん、そう思う。手を握ってあげてさ。声をかけてあげて」


「私が、辛い思いをしても?」


「うん。辛いけれど、笑ってあげてよ。最期まで」


 彼女は無言で頷いた。


 それから陽子さんはベッドに入った。

 用意してくれた別の毛布にくるまって、ぼくはカーペットの上に寝転がる。


 電灯を消した部屋には、彼女の寝息がかすかに聞こえていた。


 それと、時計の秒針の音。

 刻々と、命が減っていく音だ。


 それは病人だけじゃない。

 ぼくたちの寿命だって同じなのだ。


 陽子さんのそばにいるせいか、あるいは枕がないせいか、なかなか寝付けないぼくは、過去にあった安楽死の問題をぼんやりと考えた。


 どれも似たような話だ。

 不随になった親が子どもに殺人を頼み、子どもが孝行だと考えて毒殺する事件で、第一審では尊属そんぞく殺人が適用された。


 時代が時代で、四十年も前の話だからだ。

 尊属殺人は今はもう削除された法律で、それまでは子どもが親を殺すのは一般的な殺人よりも重いとされていた。


 結局、嘱託しょくたく殺人ということで懲役一年、執行猶予三年という判決がくだされた。

 終わってみれば、普通の殺人よりも軽いという判断だ。


 同様の話は海外でもあって、どれもそのたびに安楽死の問題に一石を投じるのだけれど、やはりほとんどが執行猶予付きの有罪判決が出ている。


 情状酌量の余地ありということだ。

 それでも、罪であることには変わりない。


 陽子さんが殺人を既遂きすいした場合、罪状はやはり嘱託殺人で、執行猶予も付くだろうが前科も残る。


 心だけではない。

 社会的立場として、陽子さんは消えない呪いを背負うことになるのだ。


 彼女の殺人を思いとどめたのは、間違っていないとぼくは思う。

 そんなことを考えながら、ゆっくりと眠りに落ちた。


 クリスマス・イブの、彼女の泣いた夜の中に……。



 ――それはけっして、あの天体観測をした星空とは違う。

 そう感じたのは、寝静まったころに、スルリと毛布を奪われたからだ。


 あの月夜はたしかに第三者のいない宇宙だったかもしれないが、星たちがそこにはいた。


 そうしてぼくたちは、スピカのように重なってはいなかった。


 スピカ。

 それは、ふたご座を織りなす恒星の一つである。


 肉眼だと一個に見えるけれど、実際には二つの星が互いの引力によってグルグルと舞い遊んでいるらしい。


 付かず離れずで一定の距離を保っていた二人は、六帖の雪の中でどうしてか衝突した。

 潮のように引いては押して、押しては引く。


 転がって膨らんでいた雪玉に、ぼくはやはり気付けなかったのだ。

 不謹慎だと目を逸らすことはできたけれど、それすらも意中になかった。


 陽子さんに吹かれた水面は、次々と波紋をその上に作る。

 やがて湖から外れたそれは、そよ風となって雪原を撫でたのだ。


 ベッドには、まだ彼女の体温が残っている。 

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