第34話「氷の結晶」

 部屋に通されると、彼女は暖房をけてくれた。

 普段なら彼女の家に入るなんて一大事だけれど、さすがのぼくもそういう気分にはなれない。


「あたたまっていてください」


 自分の方がよほど身体からだが冷え切っているだろうに、陽子さんはそうひとちてどこかへ消える。

 足音は天鵞絨ベルベットのラグに落ちて、幽霊のごとく姿を無くした。


 その静寂を破るのは、ファンヒーターの青炎せいえんだ。

 月が燃えるような瑠璃色の火勢かせいは、立ち尽くしたぼくのズボンの裾を暖める。


 その熱を感じながらぼくは思う。

 温風のにおいこそ同じであれ、自分の部屋とはまるで印象が違うと。


 六帖の洋室にはベッドと丸いローテーブル、あとは衣類をしまうチェストしか置いていない。


 ぼくだってそう家具は多くない方だけれど、これではあまりにも荒涼こうりょうとしている。

 とてもではないが、女性が寝起きする空間とは思えなかった。


 そして何よりぼくを不安にさせたのは、その殺風景な寒々しさに、死へ向かって身支度を整えている陽子さんの背中を鮮烈に見たからである。


 不吉で忌まわしいというのに、それはどうしてか光彩陸離こうさいりくりたる幻影として発露した。


 母親が病のとこしてからというものの、一つひとつ、部屋にある置物やポスターを処分していく姿が目に浮かぶ。


 喪失は、所有あってのものだ。

 大切な思い出を少しでも減らしてしまえば、それだけ奪われる恐れも消えていくのだと信じて、彼女は一心不乱にものを片付けていく。


 そうして、十六日の晩。

 ベッドで目をつむっていた彼女は、電話の着信音で飛び起きた。

 危篤を告げるものだとすぐに理解するも、咄嗟に緑の円をスライドすることはできない。


 血の気の引いた手の中で、スマホは身震いをしながら音を鳴らし続けた。


 散々迷った挙句、恐る恐るそれを耳元に近付ける陽子さんの横顔が、カーテンの隙間から漏れる月明りに照らされている。


 返事は一言、二言。


 はい。

 はい。

 わかりました。

 すぐに行きます。

 

 スマホを枕元に放り投げたことにも気が付かないまま、彼女は頭を抱えた。

 これまで先送りにしてきた問題に、いよいよ直面したのだと恐れをなす。


 これがまだ明るい時間だったらどれほどよかったか。

 どうして今なのだろう。

 どうして月が出ている晩なのだろう。


 夢遊病者の足取りで、彼女はスリッパも履かずに冷たい廊下を踏み歩く。

 向かった先は母親の寝室だ。

 不眠か中途覚醒か、いずれにせよ睡眠を補助するための錠剤をあるだけ口に放り込んでここへ戻ってくる。


 動悸は収まらないどころか増していく一方だ。

 枕に沈めた頭に浮かんでくるのは、光の溢れる思い出よりも、元気だったころの声を思い出せない自分への憎しみと嫌悪。


 瞼を下ろすまでもなく、現実はゆっくりと褪めていく……。

 自分さえも片付けてしまうかのように。

 

「田辺さん」


 出し抜けな呼びかけに、大きくまばたきをしてしまう。

 いつの間にか陽子さんが戻っており、手にはマグカップを乗せたトレイがある。


 彼女はまだ目を腫らせて、ぐずぐずと鼻をすすっていた。


「ずっと立っていたんですか? 好きに座ってください」


 ぼくがそぞろに腰を下ろしたところへ、


「これ、どうぞ」


 目の前に湯気の踊るココアが置かれた。


 自分のそれも用意したのだろう。

 正面に座った彼女は、薄茶色の水面みなもに息を吹きかける。


 陽子さんはやはり、平静な水上を揺らすのだ。

 ぼくにそうしたように。


「落ち着いた?」


「はい。でも、考えは変わりません」


 まさにココアを飲もうとしていた彼女の目元が曇っているのを見て、今度は眼鏡をしていることを知る。

 魔法は零時を回らずともけるのだ。

 たった一度の過ちによって。


「別に、私が勝手に考えたことじゃありません。誰かにそそのかされたわけでもありません。ただお母さんから頼まれたことですから。二度も」


 ニドモ。

 喉を震わせて強調されたそれは、ぼくの心に冷たい黒を垂れ流す。


 ココアをすする唇が甘いからといって、そこから吐き出される言葉まで甘いわけではない。

 そんなこと、言われなくとも知っていた。


「さっきも言ったけれど、これは私とお母さんの問題ですから。田辺さんにとやかく言われたくなんかありません。あなたは私を止めて、それなのに私を殺してくれないんですもんね。私がただただ苦しむだけで、あなたはそれを見て悲しんでるフリ」


「フリなんかじゃないよ」


「いいえ、知ってます。あなたは悲劇を見ても感傷に浸るだけだってこと。何もしないまま傍観して、小難しい屁理屈を並べて自己満足をするんです。そうやって、いつもみたいにけむに巻くつもりでしょう?」


 彼女は再燃したのか、赤い顔に涙を滲ませていた。


 真正面から向き合いながら、ぼくは甘い香りについ頬を緩ませそうになる。

 よくぞ自分の本性を知っているものだと。


 だからこそぼくは、素直に言う。


「その通りだよ。ぼくには何もできないし、答えもわからない。法的には間違いだと知識では知っているけれど、道徳的にはなんともいえない。それに陽子さんの言う通り、これは家族の問題だ。ぼくが干渉していいわけがない。でも、それでも『殺してほしくない』って、わがままを君に言うしかないんだよ」


 正論に感情論で返されては、たまったものではないだろう。

 マグカップを両手でくるんでいた陽子さんは、呆れたように息を吐いた。

 そうして背中を丸め、項垂うなだれてしまう。


 そんな彼女の背後にはベッドがあった。

 ふいに掛け布団が外側に折り畳まれたかと思えば、寝具から起き上がったのは陽子さん本人である。


 ぼくは知っている。

 に凶器や毒薬は要らないことを。

 皺の刻まれた病人の細首をひねる握力と勇気さえあれば、それで事足りることを。


 病室で人を殺める情景もまた、労せずして想像される。

 そう予期したぼくはそれを振り払うかのように、「イマ・ココ」にいる陽子さんに焦点を直した。


 以前ぼくは雪に溶けてほしいと彼女に願ったけれど、ここにきてその身勝手な希求ききゅうが叶ったのかもしれない。


 つまり、この部屋はひとひらの雪だ。


 まず一万メートルもの上空でまれた水滴が雲となり、雪を落とす。

 それはより小さな氷晶ひょうしょうによってられており、透過するはずの光は雪の内部で乱反射を起こすのだ。


 光を踊らせて雪はそれ自身を白く映すように、この部屋の中で陽子さんは蘇った。


 過去の光が、陽子さんの自殺を告げる。

 未来の光が、陽子さんの殺人を告げる。


 そして現在の光が、陽子さんの行き場のない苦悩を雫として輝かせていた。

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