第33話「イブ2」

 毛先の痛んだ髪から漂ってくるのは、パンの甘い残り香。

 それと氷点下の雑踏に立ち尽くしていたことを凛と告げる寂しさ。

 

 星雲に遊泳する季節には、それぞれの芳香ほうこうというものがある。

 春には爽やかな新緑しんりょくが、夏にはせ返るような黒いアスファルトが、秋にはツンと刺す枯れた紅葉もみじが、ぼくたちの鼻孔をくすぐるのだ。


 ごたぶんに漏れず、冬にだって刃物のように鋭利な香気がいくつも流れる。

 たとえばしもの降りた土草の身震いであり、真白ましろしばれた雪色ゆきいろであり、排気口から漂う灯油であり、死人のごとく冷めた陽子さんの体温だった。


 ぼくは何かを拒むように顔を上げ、あえて彼女の温度から離れようとした。

 そうして太陽がビルの屋上にかかりつつある冬空を見る。

 

 雲はない。

 すべて氷となって降り注いだのだろう。

 だから空気はどうしようもなく清冷せいれいで、ぼくを突き放していた。


 耳元には愛しい女のさざめき。

 ああ、海が鳴る。

 潮声ちょうせいが胸に流れ込んでくるのを、ぼくはされがままに感じている。


 息を吸って吐くことすら、どうかすると面倒だ。

 自分は己の罪をとんと忘れて、陽子さんと幸福な時間を共有できることだけを考えていた。

 これを一人芝居と言わずになんと言おう?


 二枚目の緞帳どんちょうは、たしかに下がりつつあった。

 多少なりとも、自分は前へ進んだのだ。

 けれどまだ舞台を隠すには中途半端で、ぼくの足元が覗いている。


 それがいけなかった。

 演者の表情は隠れているくせに、足元の動きだけは見えるのだ。

 

 もし顔が見えているのなら、嘘ではないと言い張って、笑ったり泣いたりする醜悪な演技も通用するだろうが、歩調や足取りだけは普段意識しているわけではないし、そうそう装えるものでもない。


 だから「彼」がいかに地に足のついていない人間であるか、それが丸見えなのだ。

 陽子さんに近付いたり離れたりする臆病な足取りは、まさに一進一退である。


 たしかにその尻込みした情けない態度はまだ笑い話にもなるし、忸怩じくじたる思いで受け入れることもできるはずだ。


 しかし「もしかしたら」と胸三寸むねさんすんと財布に忍ばせていた避妊具が毒虫のように舞台床へ落ちたときには、もう言葉はない。


 意地悪な照明は、ここぞとばかりにそちらを照らす。

 浮かび上がった先には、四角形のプラフィルム。

 その中央に円形の凹凸おうとつが、陰影として形作られた。


 もしかすると、陽子さんの胸に開けてしまった傷口と同じ形をしているのかもしれない。


「ぼくは君を殺せないよ」


 そこで彼女はぼくから一歩引いて、真っ赤な瞳をこちらへ投げた。

 ぼくは陽子さんが眼鏡をしていないことに今になって気付く。


「今日は特別な日だから」と、望遠鏡を覗かないのにコンタクトレンズをしてくれたのかもしれない。


 たださえ乾燥する季節にレンズを貼り付けた眼球は、余計枯れてしまうだろう。

 それを潤わせる涙が幸福ではなくて、深甚しんじんたる悲しみや怒り、そしてぼくへの失望から滲み出るものだなんて。


 二人のつま先には三十センチほどの距離が生まれたけれど、実際は違う。

 だって、それは誰かが作った勝手な尺度に過ぎないのだ。


 実際には星と星くらい、ぼくたちは今離れている。


「殺せないのは知ってますよ。あなたが意気地いくじなしで無責任だってことは、私、よおく知ってますから」


 もはや怒っているようにも悲しんでいるようにも見えない。

 疲労も溜まっているのだろう、顔色はすっかり白んでいる。


「大嫌いです。もう」


 ささやかな声だった。


 陽子さんの言葉は雪のようだ。

 音もなく降るくせに、気が付けば積もっている。

 時には凍り、時には心地よい。


 陽子さんの唇は万華鏡のようだ。

 音もなく色を変えるくせに、いつだってぼくを弄ぶ。

 時にはサディスティックな冷艶れいえんを、時には愛を、そして時には誹謗ひぼうを吐くのだから。

 

 口元だけではない。

 硝子ガラスという隔たりがない分、そのまなこは、尊厳を奪われた苦痛を、光のようにまっすぐぼくに伝える。


 そう、だ。

 どういう経緯けいいであっても関係ない。

「それ」を否定する法律や道徳が、ぼくの部屋とか駅前のトイレとかプラネタリウムにあったとしても、陽子さんと病人がいる二人きりの病室には厳然げんぜんとあるのだ。


 母親を娘が殺すという行為を正当化する愛情というものが、たしかにあるのだ。


「だから、私がお母さんを楽にさせるんです」


 だから、というのはぼくが陽子さんを殺せないという事実を修飾している。


 彼女は、自分の命を含めたすべてを放り出すか、あるいが嘱託しょくたくされた通りに母親を殺害するか。


 その二つの選択肢しかないと、陽子さんは思っているのだ。


「それしかないんです」


 先ほどの勢いはとうにない。

 何時間も震えずに凝り固まった声帯は、現実から易々やすやす剥離はくりして、どこか他人事ひとごとめいた諦観ていかんがあった。


 このまま帰すわけにはいかない。

 早くどこかへ落ち着いて、彼女の動揺を抑えなければと。


 しかしそれ以上に、この場をすぐにでも離れたい理由があった。

 情けない話だ。

 つまり、ぼくの血管に冷たい血小板を流すのは陽子さんに対する罪悪感や気がかりよりも、半円に歪んだ好奇の眼差しにさらされることが恥ずかしいからである。


 とりわけ今日は、365日の中で最も幸福が満ち溢れる一日なのだから……。

 もう、嫌になる。

 いつだってぼくは自分のことばかり。

 今ほど自分の存在が馬鹿らしくて、生きるに値しない愚物だと痛感したことはない。


「どこかへ寄ろうか?」


「家に帰りたいです」


 嗚咽は収まったようだ。

 弱々しくしぼんでしまったさまを見下ろして、怒るという感情そのものが、彼女にとって大きな負担なのだと察する。


「タクシーで送っていくよ」


 クリスマスの繁華街ということもあって、空車の赤字を見つけるのは容易だった。

 半ば魂の抜けたように足取りのおぼつかない彼女を乗せて、知らない道を走る。


 車中、会話は一言もない。

 そのせいだろうか。


 彼女の鼻のかむ音や、タイヤの溝が凍結した路面を踏みしだく音、秒針を思わせるウインカーの音に、運転手の咳払い。


 そういう些細な物音が、やけに鮮明だった。


 こちらから目を逸らすように窓の向こうを見遣る彼女の表情は、暗闇に覆われつつある窓硝子に反射しない。


 声をかけたり、座席に放り出された彼女の手を、ぼくは握ることができずにいた。


 彼女の家は、ひっそりとした閑静な住宅街にある二階建てのアパートだった。

 着いたころにはすっかりは落ちていたし、何度も舌先で舐め取ったぼくの唇はすっかり縦線が入っている。


 


「着いたよ。今日はごめんね」


 タクシーの中でぼくがささやくと、


「一人になりたくないです」


 頭の中が空白になる。

 この期に及んで、陽子さんがぼくのそばにいてくれるとは思ってもいなかった。


 何も返せずに、ただ財布のジッパーをまんでいると、


「一人になりたくないです」


 彼女は繰り返した。


 それから気の短い運転手も、わざわざこちらを振り返って急かしてくる。


「上がってもいいの?」


 陽子さんはこくりと頷いた。

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