第32話「イブ」

 二十四日。

 クリスマス・イブだった。


 朝起きても冷えた洋室にプレゼントはないけれど、ぼくは今日、陽子さんと会えるのだ。

 てきぱきと窓の結露を雑巾で拭き取り、灯油ストーブをオンにする。

 アラームの二時間前に起きた自分を、現金なものだと内心で笑っていた。


 病人の容態ようだいは気がかりだが、今日だけでも陽子さんが悲しみを忘れてくれるような日にしたい。


 そう胸に秘めたぼくは何時間も暇を弄んだあと、グレーのコートを羽織り、ネイビーのマフラーを巻いて家を出た。

 寒色だけれど、寒くなんかない。


 デートプランは彼女が決めてくれた。

 内容は「明るいうちに駅前で合ってご飯を食べる」という代り映えのしないものだけれど、必ずしも退屈に直結しない。


 ぼくたちにとって、特に陽子さんにとって、反復行為はある種の抵抗をはらむからだ。

 何に対する抵抗かといえば、もちろん崩れ落ちる生命――換言すれば死そのもの。


 朝の連絡では、問題なく会えるとのことだ。

 待ち合わせの場所と時間も、しっかり確認してある。


 ぼくはすっかり浮かれていた。

 絵は未完成だけれど道筋は掴めたし、そう遠くないうちに完成させられる目途も立っている。


 お父さんの夢もあれからずっと見ていない上、絵を描くという作業によって心の精算が進んでいる実感があったので、もう恐いものなしだ。


 世間はクリスマス一色だった。

 街を歩けばイルミネーションが輝き、いたる所にツリーが飾られて、クリスマスソングに乗せて幸せがたんまりと流れている。


 街は色鮮やかに点滅して、冬を彩っている。

 この街が、この冬が、ぼくを歓迎してくれているかのような高揚感さえあった。


 時刻は十五時を回ろうとしている。

 駅前の待ち合わせ場所には、すでに陽子さんが立っていた。

 腕時計を見て、約束した時間の十分も前であることを確認する。


 彼女も、今日は浮き足だって楽しみにしてくれたのだと舞い上がった。

 小走りで彼女に近付いて、声をかける。


「陽子さん」


 顔を上げた彼女を見て、ぼくは言葉を飲んだ。


 陽子さんは目を潤ませていた。

 その上、明確な怒りの感情さえ表している。


 彼女は眉間に皺を寄せ、ぼくを睨み付けた。

 言葉は要らない。

 すぐに事態を察して、ぼくは絶望する。


「絵はがきのメッセージを消したのはあなたでしょう?」


 返事もできなかった。


「母に言われたの。もう声を出せるのは今日が最後だと思うから話すけどって」


 普段の彼女からは想像も付かない低い声で、早口にまくし立てる。


「私、お母さんに殺してほしいって言われました。絵はがきに書いたけれど、気付く様子もないから見てみたら消えているって。本当は口頭で伝えたくなかったけれど、仕方ないから今こうして声に出しているんだって」


 彼女は怒りに燃えていた。

 目もつり上がっている。

 

 しかしそれ以上にぼくを恐怖させたのが、彼女の口調だった。

 普段の落ち着いた、歌うような声音が、今は震えて端々に力がこもっているのだ。


「それを今日のお昼に言われたんです。それでいてもたってもいられなくて、ここへ来ました」


 すると彼女はまだの高いうちからずっとここにいたということか。

 寒さに震え、怒りに燃え、悲しみに暮れながら、ずっと……。


「ごめん」


「ごめんじゃないです」


 即答だった。

 ぼくは二の句も継げない。


 そこで彼女はようやくまばたきをして、瞳のふちに溜まっていた涙が流れ落ちた。


 それを拭おうとして手を近付けると、彼女は思い切りそれを振り払う。


 驚いた。

 彼女がそういう暴力的な行動に出るとは予想もできなかったのだ。


「もう、何も考えられない」


 そうして陽子さんは、しゃくり声を上げて泣き始める。

 駅前で人通りの多い場所だ。


 すれ違う人はみな「クリスマス・イブだというに」という嘲笑の視線を投げてくる。


 何がクリスマスだ。

 何がイルミネーションだ。


 ぼくはこの街の全てを呪いたくなった。


「ごめん、陽子さんが傷付くと思って消したんだ」


「直接言われた方が傷付きます」


 叫び声だった。

 彼女がここまで感情を爆発させたのを目の当たりにしたのは、当然はじめてだ。


「冷えてるだろう。とりあえずどこかに入って、あたたかいものを飲もう」


 彼女は頭を振る。

 幼児がするみたいに、てこでも動かないといった様子だ。

 

 どうすればいいのだろう。

 ぼくは途方に暮れた。


 自分の身勝手で彼女はひどく傷付いているのに、ぼくは呆然と立ち尽くすことしかできない。


 死んでしまいたくなるほどの無力感が、ぼくの全身に重くのしかかっていた。


「私は、お母さんを殺します」


「ちょっと!」


「それが、お母さんにできる親孝行です」


 ぼくを威圧するように見上げ、はっきりとした口調で宣言する。


「そんなことないよ……」


「田辺さんには関係ないでしょう。私と母の問題です」


 お前は無関係だと言われたら、ぐうの音も出ない。

 それでも、彼女を放っておくことなんてできるはずがなかった。


「陽子さんはそれからどうなるの? 幸せにはなれないよ」


「でも、そうしなかったら母が幸せになれません。母が幸福なら私は不幸になってもいい。捕まってもいい」


「だめだよ、だめなんだよ」


 そこで彼女は歯を食いしばって、鼻から息を吸い込んでから、


「じゃあどうすればいいんですか? 田辺さんが母を殺してくれるんですか?

それとも私を殺して、何もかも楽にしてくれるんですか?」


 陽子さんの食ってかかるような詰問に、たじろぐしかない。


 ぼくはその時になってようやく、自分がいかに無責任かを思い知った。

 彼女を慰めることもできなければ、彼女の考えを肯定することもしない。


 ただ自分のわがままを押し付けているだけじゃないか、と。


「田辺さん、私を殺してください。終わりにしてほしいんです」


 そう言って彼女は、ぼくに飛び込んできた。


 陽子さんをしっかりと抱きしめる。

 自分の肩の上で泣き声を上げて、しゃくりに合わせて揺れる彼女の背中が、途方もなく切なかった。


 何もかも捨てて、宇宙へ行きたいのだ。

 彼女だけの、一人ぼっちの宇宙へ……。


 アルバイトの帰りなのか、彼女の冷え切った黒髪からは、かすかに甘い香りがした。


 そんなにおいを見つめる瞳は、あの美しい月を見たそれからこぼれたとは思えないほど、独りよがりな色をしているのだろう。

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