第31話「夢」
堤のことは、牧田さんも気がかりだったらしい。
フった男とはいえ赤の他人ではないのだ。
「ごめんね、いきなり来てもらって」
彼女の灰皿にある煙草の吸い口には、ほとんど色がついていない。
「会うたびにメイクが薄くなってるね」
ジンジンと痛む赤い鼻っ面を撫でながらぼくが言うと、
「だって、合コンは張り切ってたもん」
ぼくは牧田さんに呼び出されて、喫茶店に来ていた。
街中にある
カウンターの横には小さなステージが用意されていて、ドラムが置いてあった。
運がよければ、生演奏が聴けるのかもしれない。
ぼくたちは吹き抜けのある二階席に落ち着いているため、上からその様子が見て取れた。
「それで、どうなったの?」
「二人で会ってさ。サークルが原因でそういうことに手を出したとか、一人勧誘したら五万円もらえるとか、そういう話を聞いたよ。普段から饒舌だけど、あの日は酔っぱらっていたのもあって色々教えてくれたんだ」
「堤君が酔っていたの?」
「うん」
その様子がなんだか面白くて、
「ぼくもはじめて見たよ。顔も真っ赤でさ。でも、言いたいことは全部話したよ。それに堤も根っからの悪党じゃないから、良心の呵責はあるみたいだった。あとはもう、あいつ次第だ」
暖かい店内にいてもなお、あの晩のことを思い出すと身が凍る思いだ。
手袋をつけずに煙草を吸っていたせいか、家に帰って手を洗うときには熱湯のように芯から痛くなったのを思い出す。
牧田さんは胸を撫で下ろしたように緊張を
「よかった。ありがとう、色々してもらって」
「こっちこそ、牧田さんに教えてもらわなかったら気付かなかったよ。鈍感だからさ」
実際ぼくは、周囲の人間模様がどれほど複雑に絡み合っていたのかを
ポケットに入れていたせいでビニールが結露した煙草を取り出すと、
「カフカにしなかったのは、煙草が吸えないから?」
牧田さんがそう言った。
「カフカって?」
話を聞くと、陽子さんが勤めているあの喫茶店はそういう名前らしい。
「へえ、はじめて聞いたよ」
「陽子ちゃんから名刺を貰ったんでしょう?」
たしかにそうだ。
けれど、何かのタイミングで捨ててしまった気もする。
「フランツ・カフカが由来になってるんだ」
「朝起きたら毒虫になってたっていう小説を書いた、あの?」
「うん、マスターが読書好きでさ。それで私もたまに読むようになったんだ」
バーで雪国の話をしたのも、その影響かもしれない。
事の発端は、牧田さんから例の喫茶店で会おうとラインが来たことだ。
ぼくと牧田さんの他にも、陽子さんを交えて話をしたかったらしい。
彼女の容態や堤の状況など、聞きたい話は山ほどあるに違いないと思ったぼくは、一向に進まない水彩画の筆を置いてすぐに
「実はさ、プレゼントを選ぶのを手伝ってほしくて」
「クリスマス?」
彼女が身を乗り出したとき、耳元のピアスが音を立てた。
その
胸元から目を逸らしたぼくに、
「そっか、三人で会ったら台無しだもんね」
頭をかきながら「そうそう」と口の中でモゴモゴと返事をした。
牧田さんは、まるで自分が誘われたかのように浮足立って、
「もう約束はしたの?」
「うん。それは陽子さんから聞いてないんだ?」
今さっき出た名刺は十中八九、陽子さんから受けていた相談にあった話題だろう。
「最近は連絡もあんまり取ってなくてさ。もう、そういう状況じゃないのかもね」
「そういう状況って?」
それには答えずに、
「田辺君は来年はもう四年生だよね。就活はどうするの?」
一挙に現実的な話に戻り、ライターのフリントを回す手が止まる。
「将来の夢もないし、なりたい職業も思い付かないね」
「画家、いいじゃん」
ぼくは煙草をくわえたまま笑い飛ばす。
「もう遅いって。それに才能もない。趣味だよ、あれは」
それからようやっと火を点ける。
「なんで遅いのさ」
今度は笑い飛ばせなかった。
だって、その声には明らかな怒気がこもっていたからだ。
顔を上げると、牧田さんはまっすぐにこちらを
ぼくは紙巻を着火したつもりだけれど、どうしてか彼女にも引火したらしい。
突然ムキになった彼女を茫然と見返しながら、
「好きなんでしょ? だって合コンのときもそう言ってたじゃん」
ふいに、あの緑がぼくの水晶体に飛びこんできた。
その思い出は、夏の陽光や、草木の香りや、汗ばんだ肌にくっついた砂利を引き連れて、ぼくの現前に姿を現したのだ。
その手触りは、まるで心地のいい夢のようである。
先生に褒められたこと。
風景を描くことが楽しくて仕方がなかったこと。
それなのに写真かと見紛うほど精緻に描写された他人の作品を見て、そっと目を逸らしたこと。
夢の終わりは、冬の冷気にも似た刺々しい痛みを伴った。
「好きだよ。でも、ぼくより上手いヤツはごまんといる」
「諦めが早いんだね。でも、今描いてるんでしょ? 彼女のために」
陽子さんは、そんなことまで話しているのか。
「嬉しそうだったよ」
「会って話したの?」
彼女は「うん」と頷く。
「別に画家を目指せって言ってるわけじゃないよ。でも変に拗ねてるみたいで、もったいないなって」
どうせ死ぬんだから。
その言葉が、たしかに喉奥を揺らそうとした。
それを押し込んだのは、キスをしたあの朝方だ。
生きてやる。
月に誓ったそんな胆力は、まだぼくの魂に定着はしていなかったらしい。
けれど、
「いつか死ぬかもしれないけど」
「えっ?」
呆気に取られた牧田さんに、
「でも、だからって諦めるのはもったいないかもね」
「うん」
自分もいつかは死んでしまい、火葬されて骨になる。
ぼく自身、陽子さんに言っていたじゃないか。
公園ではじめて会って病人の話を聞かされたとき、自分は「一日一日が大切だね」と口にした。
それは余命を宣告された病人だけの話ではないはずだ。
ぼくたちはみな、余命を知らずに生きている。
死があるからこそ、終わりがあるからこそ、生は輝くのかもしれない。
「ねえ、聞いてる?」
「ああ、うん」
我に返って、気を取り直すように飲み物を一口含んだ。
他人と話している時でも、自分の思考に入れ込んでしまうのが昔からの悪い癖だった。
「絵を描くのが好きなら、挑戦してみればいいじゃん。適当な会社に入るのはそれからでも間に合うよ」
「牧田さんは進路決まっているの?」
彼女は得意げに、
「保育士だよ」
「へえ、意外だ」
「そうでしょ。それで女子大に入ったのさ」
そうすると牧田さんは、少なくとも高校生の頃から自分の将来をきちんと見据えて行動していたことになる。
悲劇の主人公を演じていたぼくとは大違いだ。
「堤もそうなのかな」
質問というよりは独り言に近かったけれど、
「進路のこと? それなら、あの人は小学生のころから目指していたらしいよ」
「へえ」
「でも完璧主義だから、少しでも失敗をするといじけてさ。白黒はっきりつけたいタイプって言えば、田辺君にも伝わるでしょ?」
もちろん伝わる。
融通が利かず、自分の規定した線路から外れて弱っていたからこそ、悪人に付け込まれたのだ。
「つまらない男だねって言ったらさ。俺にはこう生きるしかないんだって反論されたよ」
吐き捨てるように彼女は言う。
ぼくから見る堤と人物像が異なるのは、友情と恋愛の差なのだろうか。
「あの人は親に厳しい教育を受けてさ、こだわりが強いんだよね。好きだけど、嫌いだった。まあ、もう会わないけどさ」
彼女もまた、喪失の痛みに苦しんでいるのだ。
誰だって、生きていれば何かを失うのだろう。
「私が犯罪を犯しても、あの人にだけは弁護されたくないね」
冗談めいた言い様だったし、彼女自身も笑ってはいたけれど、
「ねえ。そろそろプレゼントを買いに行こうよ」
そう提案したのも、乾いた笑顔を貼りつかせたままでいる彼女だ。
ぼくたちは地下街に潜って店を回った。
どこかしこに電飾がちりばめられていて、目に刺さるほどの光に包まれている。
喧噪に混じるのはブーツの足音と、聞き慣れたクリスマスソング。
まるで気の早いクリスマスデートのようだった。
もしそうなら、お洒落な彼女はぼくみたいな冴えない男を横に置いて恥ずかしくないのかと思う。
そういうところを気にしないのも、彼女のさばけた性格の良さだった。
ぼくたちは、あれだこれだと物色しては議論して、最終的にはハンドクリームとヘアミルクを買った。
自分はそもそもヘアミルクなんてものは知らなかったけれど、トリートメントのようなものらしい。
ともかく、女性らしい物選びに、ぼくは感嘆した。
ありがとうとお礼を言うと、
「いいよ、陽子ちゃんと堤君のことを助けてくれたもん。私は何もできなかったから」
最後の言い草に引っかかったけれど、ぼくが口を開くより先に、
「じゃあ、ちゃんと渡してよね」
と、手を振って改札を抜けていった。
彼女にも、堤の行く末はわからない。
いつになれば、あの男は牧田さんを心底 安堵させてあげられるのだろう。
ともかく、クリスマスの予感がした。
子どもの頃なんて初雪に白んだアスファルトに、包装紙のにおいを思い出したものだけれど、久しぶりに高揚感のある冬だった。
胸の奥には、陽子さんがいるから。
冬の街そのものが、心を躍らせている。
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