第30話「雪玉」

 花は枯れた。

 冬に殺されたのだ。


 そして陽子さんの瞳には、花びらを一枚だけ残したそれが半月の形をして揺れている。

 散りゆく運命さだめが間近にあるのを、彼女が知らないはずはない。


「絵はがきは、まだ見ているの?」


 声が震えているのは、寒さのせいではなかった。


 彼女は振り返って、


「はい、裏も見ていたんです。誰かに送るつもりだったんでしょうかね」


 病人は、自分の書いたはずの文字がいつの間にか消えていることに、首をかしげただろう。

 そうして、犯人がぼくであることにも気付いているはずだ。


 あの病室で目が合ったとき、互いに全てを察したのである。

 彼女の母親がその場で何も言わなかったのは病状のせいか、その気がなかったのか、ぼくにはわからない。


 だからこそ、「今後の行く末は自分にゆだねられているのだ」という責任が重くのしかかる。


 白状して罪をあがなおうか。

 それともこのまま黙って、彼女の耳に入れない方が良いのか。


 それもまた、容易に判断できるものではない。


「もう少し見ててもいいですか? 田辺さんはベンチに座ってもらっても大丈夫ですよ」


 二つあるベンチの、例の方を彼女は見た。

 そこに座ればまたキスをしてくれる?

 そんな冗談を言えるぼくだったら、様々な問題はとっくに片付いていると思う。

 

「ここにいるよ。立ったり座ったりする方が冷たいんだ」


 陽子さんは言葉もなく、レンズを覗く。


 彼女がここまで何かに執着したり熱心になっている姿は見たことがない。

 懸命なさまは喫茶店での働きぶりで知ってはいるが、食い入るような様子ははじめてだ。


 何を思うの?


 そんな質問が浮かんでは、淡雪あわゆきのように消えた。

 月に行きたいと言った彼女が、プラネタリウムで虚像を見て、今は実像を覗いている。


 その先にあるのが前にこいねがった死ではないのなら、何があるのだろう。


 陽子さんの無防備な横顔を――寒さに赤らんで、それでも柔らかそうなその頬を見ているうちに、ぼくは下腹部に熱を感じた。

 血流がとめどなく流れ込み、やがて一つの裸形の欲望を作り上げる。


 それは、雪玉と同じだ。

 くだることはあっても、のぼることはない。


 はじめは、普段 意識もしていない小さな結晶だ。

 自然界には普遍的にあるし、目をらせば綺麗にも映る。


 それなのに転がって膨張していくと、途端に表情を変えるのだ。

 雪の白でも、血の赤でも、色はどうでもいい。

 連続的に肉体を与えられることによって、その全貌はいよいよ凝固していく。


 ぼくは愚かだ。

 何故かといえば、手に負えない段になってようやく気が付くからである。


 たとえ溶けることはあっても、時間がかかるのだと。

 それを一挙に片付けてしまいたかったら、暴力が必要なのだと。


 巨大な雪玉を陽子さんにぶつければ、もちろん傷付けるだろう。

 そんなことは、誰だってわかる。

 それでも、こう考えざるをえない自分に嫌悪した。


 ここで彼女を犯したら。

 マフラーやガウンやセーターや下着などの上っ面をぎ取って、ただの肉体をあらわにさせたら。


「柿崎陽子」という名前を奪ったら。

 そして全ての感情を不在だと信じ込み、一人の人間としての意味合いすら奪ったのなら。


 つまり、はぼくにとってになる。

 果たして、そこに色はあるのか。

 もしなければ、褪色たいしょくした肉の塊に陰茎を挿入することが何の罪になる?


「綺麗ですね」


 彼女の声だった。


「えっ?」


 ようやく満足したのか、陽子さんはぼくの正面に向き直っていた。


「ずっと明るい月面を見ていたせいか、パッと田辺さんの方を振り返ったら錯覚みたいな変な色が映ったんです。それがなんとなく綺麗で」


 よくある話だ。

 強い光の刺激が網膜に残ったまま別のものに視線をやると、そこに残像を見るのである。


 それにしたって不埒ふらちな欲望でいっぱいなぼくの顔に、月の残滓ざんしを重ねて「綺麗だ」と評するのは、なんて後味が悪いのか。


 自分は、陽子さんが思っているほど清廉せいれんな人間ではないのに。


 普段ぼくが彼女を対象に自慰行為をしないのは、どこか後ろめたさがあるからだ。

 陽子さんへの気持ちを指して、これは欲望ではない。純粋な愛情なのだと。


 だからかたくなに、陽子さんの裸体を想像の外に置いた。

 その代わり、それこそ石ころと変わらない女や液晶に映るそれで済ませるのだ。


「顔が真っ赤だよ。もう帰ろうか」


「はい」


 彼女は林檎のような頬で、満足したように頷いた。


 ぼくはどこか冷や汗をかく思いで、いそいそと望遠鏡を片付ける。


 これはぼくと彼女に月の皮膚を克明に夢見させた。

 手の届かない寒々しい肌を。血の通っていない物質を。


 ぼくが仮に陽子さんに雪玉をぶつけるときは、望遠鏡で彼女を見ているときかもしれない。

 かぐや姫ではなく、月そのものと同一視したときかもしれない。


 帰りの道中、ふいに陽子さんが、


「あの、田辺さんは月を見ることで嫌な思いをするんですか?」


「え?」


「今、あの月が田辺さんのお父さんのお墓だって思い出したんです。それで、それを見ることで苦しい気持ちになったなら申し訳ないなって」


「ああ、気にしないで。元々、星は好きなんだ」


「それなら良かったです」


「お墓参りをしたようなものだしね。命日にさ、実際のお墓に親と行ったんだ。そのときに絵を描いて心の整理をつけようって思い付いたんだよね」


「そうだったんですね」


 少し声のトーンを下げて、


「お母さんは、どう?」


「昨日から意識が混濁こんだくしていて、もう数日だと言われました」


 ぼくは、その言葉に違和感を覚えなかった。

 そんな自分が、他人めいた乖離かいりの中で頷いている。


 無意識にぼくは聞き取って、理解していたのだ。

 それが今、ようやく表層に這い上がってきたに過ぎない。


 彼女はさっきから「月の写真を見せてあげたかった」とか「裏も見ていた」とか「誰かに送るつもりだったのか」と言っていたじゃないか。


 全てはだ。


 もうすでに、写真を見ることも、絵はがきを眺めることも、それを送ることも、本人ができない状態にあるという意味じゃないか。


 ぼくは歩くのに集中するふりをして、言葉を返さなかった。

 陽子さんは今、どういう表情をしているのだろう。

 その横顔を窺う勇気は逆立ちしたって出ない。


 思えば、そのような状態なら彼女が月を眺めている間に旅立ってしまう可能性だってある。

 いよいよ死を目前にして、彼女は一時でも逃げたかったのだろうか。

 あるいは、ぼくが前に言ったように、悲しい時は自分のところへ来てほしいという言葉を、陽子さんは覚えていてくれたのかもしれない。


「あの公園ではじめて会ったときが懐かしいですね」


「そうだね。あのときはごめん。余裕がなかったんだ」


「いえ、私もまだ会ったばかりの田辺さんに重い話をして困らせました」


 眉を八の字にして困り顔を浮かべる彼女に、ぼくは微笑んだ。

 あれは十一月のちょうど今時期だから、もう一ヶ月経っていることになる。


 その間にぼくは陽子さんとお見舞いに付き添って、プラネタリウムを見て、キスをして、望遠鏡を覗いた。

 ずいぶんと仲が良くなったと思うし、彼女からも以前のような警戒心を感じられない。


 彼女も同じようなことを考えていたのか、


「田辺さんには色々なところへ連れて行ってもらいました。プラネタリウムも、天体観測も経験がなかったんです。そもそも誰かと出歩くこと自体あんまりなくて、だからとても嬉しいんです」


 キスはどうなの?

 魂から肺へ、肺から口元へのぼってきた言葉は、しかし水蒸気として消える。


 あと五分もすれば、駅に着く頃だった。

 街の光が増えていく。

 別れる時間が近い。


「ねえ」


 固唾を飲む音が、自分にはっきりと届いた。


 声に出せ。

 早く言え。

 駅は近いぞ。


 彼女が一番手前の出入り口から地下鉄に下るのなら、もう目と鼻の先じゃないか。


 リップクリームを塗り忘れた唇はたしかに心もとないけれど、もう、そんじょそこからの唇ではないのだ。


 ぼくは自分に言い聞かせる。


 そう。

 陽子さんと月下げっかに重なった唇なら言えるはずだろう。


「ん?」


 彼女が続きを促した。

 らしくない砕けた態度に、ぼくは背中を押された気がした。


 今言わなければ、きっと後悔する。

 これまで何度も置き去りにしてきた勇気を、今ここで持ってこい。

 それが無理ならひねり出せ。


 父さんの死を受容するために必要なのも、やっぱり一歩前進する勇気なのだ。

 変わりたいという気持ちは、それを行動に移さなければ意味がない。

 胸の奥にしまっているだけでは、ないのと同じだ。


 月を見ている彼女に「何を思うのか?」と。

 色々なことを経験したことがない彼女に「キスはどうか?」と。


 今日だけで浮かべては底に沈めた疑問はいくつもある。

 それらの死骸の上に乗せるべき言葉は、今この瞬間に言うべきなのだ。


「クリスマスに、会いたいな」


「えっ?」


 ぼくは目をらした。

 もう前しか見ることができない。

 動かしている両脚から、感覚というものが水に溶けていく。


 沈黙が降りる。

 溝の荒い滑り止めの靴底が氷を砕く。

 そんな音すら遠のいた。


 心臓が熱いのは、さっきの比ではない。

 絵はがきの憂慮ゆうりょは雪玉という欲望に破かれたけれど、それを砕いたのは暴力ではなく勇気だった。


 イエスでもノーでもいい。

 早く答えを聞かせてくれ。


「はい」


 ぼくは勢いよく振り返って、


「いいの?」


「はい」


 微笑をたたえながらこちらをじっと見つめている陽子さんは、信号機やイルミネーション、車のヘッドライトを浴びて、様々な色合いを全身に泳がせていた。……。

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