第29話「天体観測」

「晴れてよかったです」


 天体望遠鏡を組み立てているぼくの横で、陽子さんがこぼした。

 日が暮れる頃に落ち合ったぼくたちは、例の公園にいた。


「昨日まで吹雪だったもんね」


 というのも、約束通り、月を見ようという話になったのだ。

 ラインを寄越してきたのは陽子さんの方で、ぼくは一も二もなく了承した。


 ぼくから連絡を入れなかったのは、キスの後味はまだ唇の上にあったからだ。

 二十歳はたちも超えているくせに、ぼくはいまだに恋愛というものに疎いし、それもはじめてだった。


 陽子さんはどうなのだろう。

 男性経験はあるのか、その身体からだを誰かに許したことはあるのか。

 その疑問は、考えれば考えるほどやり場のない気持ちが湧き出てくるので、あえて投げ捨てたことだ。


「ここでも充分だよ」


「はい、遠出しなくてもこんなに星が広がってるんですね。今までずっと見ていたはずなのに」


 最初は星を見るのに国立公園やダム、他にも湖などの候補が上がったけれど、陽子さんの母親の件もあって、結局はここになったのだ。


 陽子さんはもとより、ぼくにもお馴染みの場所になっている公園は、やはり街灯もなければ人影も見えない。


 二人きりの星空だった。


「月が明るいから、ほかの星はかすんで見えないよ」


「はい、月だけでも満足です」


 ぼくの助言通り、彼女はコンタクトレンズを着けていた。

 眼鏡をしたままだと、どうしても望遠鏡のレンズを覗きにくいのである。


 ぼくはそんな彼女に、内心高揚していた。

 それにやっぱり、ここへ来れば口づけを連想せざるを得ない。

 陽子さんも知ってか知らでか、あのベンチには近付こうとしなかった。


 この公園は普段通り薄暗いけれど、それが今回は功を奏した。

 光害がないので、天体観測にうってつけなのだ。


「手伝えることってありますか?」


 天体望遠鏡に触ること自体久しぶりだし、パーツを組み立てるのにネジを巻いたり捻ったりするので手袋を外したのだ。

 それが災いしてすっかり手はかじかみ、余計手間取ってしまう。


「ううん、大丈夫だよ。もう少し」


 昼間、子どもに踏み固められた雪は波を打って、ずいぶんと地面がでこぼこしている。

 なるたけ平らな場所を選んだけれど、それに悪戦苦闘しながらも、ようやく望遠鏡を組み立てた。


 冷えた重い関節に力を入れて立ち上がってから、


「もっと高価な望遠鏡だと、指定した星の動きを自動的に追尾してくれるんだ」


「どういう仕組みなんですか?」


 ぼくは望遠鏡の長い筒と、三脚を固定する架台かだいを指で叩く。


「これにモーターが内蔵されているんだ。あとは勝手に、地球の自転に合わせて星を追ってくれる。だから長時間の観察とか撮影に向いてるんだよ」


 それから接眼レンズと対物レンズを、それぞれ鏡筒きょうとうの端に取り付けた。

 月に望遠鏡を向け、ピントを合わせる。


「よし、覗いてごらん」


 彼女は恐る恐る接眼レンズを覗き込んだ。

 上手く見えないのか、忙しなく右目と左目を交互に使う。


「使っていない方の目は閉じるか、手で塞ぐんだ」


 言われた通り、彼女は手袋で左目を塞いだ。


「わあ、すごい」


 彼女が感嘆の声をらす。

 月面を自分の目ではじめて見た感動に、陽子さんは驚嘆していた。

 ぼくは上機嫌で、彼女の口元から流れる白い息を目で追う。


「綺麗です……」

「うん、今日は雲もないしね」


 ぼくは得意げだった。

 彼女の要望に応えることができたのが嬉しかったのだ。


「田辺さんもどうぞ」


 彼女と交代して、ぼくも望遠鏡を覗く。


 真冬の月は、金色に輝いていた。

 大小のクレーターと数々の海が見える。

 まさか見えはしないだろうが、あのどこかに父はいるのだ。


 ある時は白銀に、ある時は真っ赤に染まるそれは、なんて不思議なのか。

 化学的に突き詰めれば、ただの光の散乱と説明がつく話だ。

 けれど人はその目を通して心に色を落とし、そこで感情を生み出すのである。


 それなら今は……?


「どうですか?」


 彼女の問いかけに、意識が四十万キロの距離を経て「ここ」へ戻る。

 針のように鋭い冷気や、身体の奥でじんわりと痺れる感覚、そしてガウンの重さがぼくに落ちてきた。


「ああ、うん。海もはっきり見えるよ」


「えっ?」


 彼女が素っ頓狂な声を出したので、


「海って言っても、水があるわけじゃないよ。色の濃い部分をそう呼ぶんだ。うさぎが餅をついているっていうのもそれだよ」


「そうなんですね、見たいです」


 浮足立った陽子さんとすぐに交代してから、


「少しずれているかも」


 ぼくはわずかに望遠鏡を動かす。


「あっ、真ん中にきました。これって、地球が自転しているから視界から外れるんですか?」


「そうだよ」


 望遠鏡を覗くとき、レンズに目を密着させるわけではないので、ぼくは彼女の瞳に浮かぶ月を見た。

 陽子さんは子どものように微笑みながら、飽きる様子もなく眺めている。

 ぼくもまた、彼女の瞳をじっと見つめていた。


 プラネタリウムのような人工の明かりではない。

 宇宙に寂しく浮かんでいる、本物の星だ。


「寒くない?」


「はい、平気です」


「新月だったら、土星も見れたんだけどね」


「えっ」


 彼女が急に顔を上げた。


「この倍率のレンズなら、ぎりぎり土星の輪っかも見れるよ」


「じゃあ、今度は土星ですね」


「うん」


 今度。

 その言葉は、なんて素敵な響きなんだろうかと思う。

 彼女はこれからも、ぼくと会いたいと思ってくれているのだから。


「カメラがあったら、この月を写真にできるのに」


「写真を撮りたかったの?」


「はい。絵はがきみたいに、お母さんに見せてあげたいなって」


 すっかり高揚していたぼくは、一瞬で青 める。


 絵はがき。

 そうだ。


 無邪気にはしゃぐ彼女の姿に浮かれて、完全にそのことを忘れていた。

 いや、それどころか陽子さんが自殺未遂を図った頃からずっと失念していたことだ。


 その口ぶりからすると、ぼくの行いを知っての発言ではないのだろう。

 とはいえ、こっちは気が気ではない。

 堤に言われた通り、悪意はなくとも自分が母子の残り少ない時間を阻害したのは事実なのだから。


 再びレンズに顔を戻した彼女の横顔を、ぼくは黙って眺めていた。

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