第28話「希望」
ぼくは一杯でも
雪国の屋内や電車の中は、むしろ暖房が効きすぎているのもある。
「二件目に行くのか」
堤が言うので、
「いや、歩こう。お前だってもうずいぶん酔ってるだろ」
彼はウンともスンとも言わずに、ただぼくの後ろを歩いた。
フードを
足早に歩を進めているわけではないけれど、空気が冷たいので、自ずと二人の呼吸は乱暴になっていた。
だから橋の上を黙々と歩く二人の白息は、悠然と泳ぐクラゲのように不規則に広がっては
後ろも向かずに、
「隣、歩けよ」
北国の道は冬になるとすっかり狭くなる。
雪が歩道と車道の間に積まれて、うず高い山ができるからだ。
それでも、さすがは街を切り裂く一級河川といったところか。
この川に
「なんだ、後ろに立たれると不安か」
寂しそうな言い草に、
「別にそんなんじゃないけどさ」
「おれは、お前が羨ましいよ」
「何のこと?」
ぼくは立ち止まって、ようやく堤の方を振り返る。
マフラーの繊維が、剃り残しのある顎に触れて痛い。
「田辺と柿崎さんの関係がさ。だって、打算じゃないんだろう?」
「打算の部分もあるよ。はじめは傷の舐め合いだったからさ」
煙草を点けると、夜をつんざくライターの明かりが瞳を
喫煙者は手が冷気に痛くなろうと、
それは依存の面もたしかにあるけれど、それ以上にやはり、自分を痛めつけて感傷に浸る小道具として使っているのだろう。
「それでも、金が絡まない分ましだよ。おれも麻衣とよりを戻したいけどさ」
堤はぼくの足元で屈みこんで、同じように火打石を鳴らす。
この橋は、繁華街と住宅街の境界となる川を
さっきまで飲んでいた繁華街とは違い、この橋や、今歩いていた方にある住宅街は明かりが
あてがあるわけではないけれど、まさに明暗を分ける場所だった。
堤が脈絡なく、
「執行猶予が終われば、
まるで自分に言い聞かせるように、ではない。
ぼくに向かって、そのかじかんだで痺れた唇を動かしていないのは明白だ。
欠格事由とは何かと訊ねると、簡単に言えば前科者は弁護士になることができないとのことらしい。
執行猶予中も同様だが、それは定まった期間が過ぎれば終わることだ。
「お前に哲学のノートを借りたろ。あれもマルチの一環だったんだ」
「どういうこと?」
酔っているので、話が二転三転してついていけない。
とはいえ、堤からすれば、今まで言えなかったことを
ぼくが美術館で牧田さんに愚痴をこぼしたときと、きっと同じことなのだ。
「勧誘の手法にはさ、最先端のビジネスとか、就職活動に有利だとか、いろいろな方便があるんだけど、その一つに宗教だったり哲学もあるんだよ」
「それでサルトルを勉強してたんだ」
「うん、そのためにも初心者に説明するための基礎知識が必要だったのさ」
「じゃあおれは、知らないうちに詐欺に加担していたんだな」
「いや、さっきも言ったけど勧誘自体は夏からしていないよ。あの合コンだって、主催者は大木だし、おれは何も動かなかった」
「鬱陶しいよ、言い訳はもう聞き飽きたって。堤は結局、失敗が怖いんだろ」
彼は何も言わない。
「サークルの奴に馬鹿にされるとか、弁護士になれないって否定されるとか、後ろ指をさされるとか、そんなものどうでもいいっておれに教えてくれたのはお前だろ。なあ」
「いつ?」
「大学の喫煙所だよ。おれが絵を描いてて、それがどうにも上手くいかないってときに、他人は意識するな、自分の好きなように絵を描けってさ。だから、お前も好きなように好きなことを目指せよ。いいだろ、退学したってやり直せるんだから」
彼は何も言わない。
黙って鼻をすするだけだ。
「絵はがきもそうだ。おれがやったことを、お前は
でも、悲しいときに陽子さんのそばにいてあげるのが最善だって教えてくれたのも、やっぱりお前だよな。おれがそばにいたら、余計陽子さんの勧誘ができなくなるのにさ。だから、おれはお前の隣にいるんだよ。助けてほしいって本音を言ったお前の隣にこうやって」
そこで息継ぎをしてから、
「じゃなかったら、こんなクソ寒い冬の外にいるわけないだろ」
最後に煙草を思い切り吸って、真上に吐いた。
携帯灰皿にねじ込んでから、
「おれはお前がサークルを抜けると決心するのを待つしかない。大木ってやつがお前を脅そうが知ったこっちゃないし、実際お自分にどうにかできるわけでもない。
だけど、堤が呼んだときには、おれはお前のところに行くよ」
堤は立ち上がって、やはり何も言わずにぼくから携帯灰皿を取る。
丁寧に火種を消してから、
「ありがとう。今日、会えて本当に良かった」
その表情は憑き物がすっかり取れた、とは言えない。
現実はそう簡単ではないのだ。
でもどこかしら、和らいだような気もする。
月明りのせいかもしれない。
「何かあったら連絡くれよな」
「うん。さっきのあれも、ありがとう」
「あれって?」
「ホープだよ」
不思議に思った。
わざわざ礼を言うことではない。
喫煙者同士で煙草を分け合うことなんてざらにあるし、近頃はどんどん値上がりしているとはいえ、それでも煙草一本なんて三十円にも満たないものだ。
それだけ言って帰るつもりか、踵を返してこちらに背中を向けた堤に、
「おい。今度さ、ちゃんとした金で煙草ひと箱
堤は笑顔で振り返り、
「1カートン出すさ」
「期待してるよ」
堤はそのまま、真っ暗な住宅街の方へ向かっていった。
果てしない暗闇に飲み込まれるようで、彼の姿はすぐに消える。
彼の心情はわからない。
今後の動向も想像ができない。
ぼくにはただ、自分や陽子さんを悪徳商法に勧誘しなかった堤の
取り残された自分はひとり、手すりにもたれて川面を見下ろした。
墨汁のように真っ黒い水が流れている。
月光を反射して、川面には幾筋もの白線が走っていた。
ふと、ホープの文字がよぎった。
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