第26話「罪過」

 ほとんど自棄やけになった男を前にしても、ぼくは慰めの言葉ひとつかけられない。

 もちろん、臨終の際に母さんにそうしてあげられなかったのとは意味がまったく違う。


 何も言うことがないのだ。

 薄情だと非難されたって、ぼくは堤を友人だとは思えなくなっていた。


 だから言葉をくよりも、むしろ冷めた焼鳥を頬張ったり、やけに濃いハイボールを飲んだりして、口に入れることで沈黙を誤魔化すしかなかったのだ。


「あの合コンのとき、大木ってやつがいただろう。あいつが俺を脅すんだ。卒業したって、あいつは俺に付きまとうつもりなんだよ。だからもう、抜けられないんだ」


 そういえば、そんな男もいた。

 一見、気の利く好青年だったように思えるが、まさか彼も一枚噛んでいたとは。


「サークルの名簿から学籍番号も知られてるし、暴露されたらすぐに捕まるよ」


「法律は詳しくないけど、捕まっても執行猶予で済むだろう?」


 ぼくが言うと、堤はゆっくりと首を振る。


 裁判で有罪判決が下されると、基本的には刑務所に服役することになる。

 ただし、状況によっては執行猶予が付くこともあって、これは文字通り刑の執行を猶予ゆうよするということだ。


 この猶予期間中に問題を起こさなければ、刑務所に入らずに元の生活に戻ることができるという仕組みである。


 その程度の知識は、法学部ではない自分でも知っていた。


「そうだな。俺は所詮しょせんトカゲのしっぽだから、服役はしないと思うよ。でも、退学処分にはなる。いや、下手すりゃ放校だ」


「放校って?」


「退学ならまだ、大学で取った単位も残るし、履歴書に中退って書ける。でも放校は在籍していたことすら認められないから、単位も時間も金も全部パーだ」


 そう言って彼は大げさに両手を広げた。


「大木だってお前と同じか、それ以上に悪どいことをしてるんだろう? なら同じ穴のむじなじゃないか。暴露すれば、そいつ自身だって破滅するだろう」


「そこがミソなんだよ。誰かが告発すれば、芋づる式にみんなが捕まる。だから暴力とか脅迫で、結束感を強めてるんだ」


 ここまでくればカルト宗教と同じだ。

 それに何が結束感だ。

 これほど歪んだ結束もそうあるまい。


「それで。トカゲのしっぽのお前は何人巻き込んだのさ?」


「中高時代の友人と、あとは大学の知人数人だよ。全員合わせて九人だけさ」


「だけ?」


 ぼくの強調した言い草を聞いた堤はそれでも、


「だけって?」


 と、おうむ返しに訊いた。


「何が『九人だけ』だよ。『九人も』だろ」


 ようやく彼がぼくの意図を理解したのか、反駁はんばくもせずに目を逸らしてから酒をあおった。


 反省の欠片も見られない態度に、いよいよはらわたが煮えくり返りそうになる。


「一人に紹介したら、堤のマージンはいくら?」


「五万円」


「なら五十万近く稼いだんだな。それはもう使ったのかよ」


「学費にてたよ」


「もう聞いてられないね。ビクビク怯えて抜け出せないから、今も続けてるわけか。馬鹿馬鹿しい」


 自分らしい皮肉がたっぷりと口をく。


 堤はやはり何も言い返すわけでもなく、せわしなく煙草を灰にした。

 たっぷりと言えば、堤がしゃぶり散らかした枝豆の殻と同じである。


 そう思ってふと、


「なあ、もしかしてあの合コンもネズミ講の勧誘だったわけ?」


「え? ああ、そうだよ。本当はそういう意図があったんだ。だから麻衣がいたのは誤算だったよ」


 呆れてものが言えない。

 心底、ぼくは堤を軽蔑した。


 陽子さんに対する侮蔑ぶべつは、同族嫌悪の面があった。

 そういう意味ではまだ救いようがあるけれど、今回はそう生ぬるい話ではない。


「飲み会が終わってカラオケに行こうって話になったときに田辺を帰したのも、それが理由だよ。本当は裏を知ってる麻衣も帰したかったけど、あいつはあいつで他の女性を守るためについてきたんだ」


 あれはカラオケが苦手という理由で自発的に抜けたつもりだったけれど、堤からすればぼくを追い払ったことになるらしい。


「俺はさ、お前だけは巻き込みたくなかったから」


 そう言って、ほとんど根元まで灰になった煙草を、熱そうに吸った。

 火種が爆ぜるように真っ赤に膨れるのを、ぼくは黙って見ているうちに、それが彼自身の心情にも思えてくる。


 一度手を出してしまえば抜け出せない。

 自分に罪悪やタールという毒を与えながら、ニコチンと金の成果を得る。

 気が付けば、泥沼に首まで浸かっているのだ。


 たしかにぼくは、一度も勧誘を受けていない。

 それどころか、マルチの「マ」の字も聞いてない。

 だから牧田さんに言われるまで、堤がそんなことをやっていただなんて気付かなかったのだ。


「お前はずっとおれを優等生だと思ってたんだろう? 俺はただの馬鹿な貧乏人だ」


 馬鹿で哀れなのは、自分もだ。

 陽子さんもだ。

 そして堤も、一人の人間なのだ。


 たしかに彼の言う通り、これまでぼくは目の前の男を、成績が良くて頭の柔らかい優等生だと思っていた。


 思っていなかった。

 しかし今一度考えてみれば、そんなものは上っ面に過ぎない。


「堤も、一人の人間なんだな」


「え?」


 一拍置いて、


「まあ、そりゃそうだよ」


 奇妙な言い分が腑に落ちないのか、堤は怪訝な表情をしている。

 しかし、それもすぐに彼の吐いた煙に覆われてしまう。


「失礼かもしれないけど、あんまり貧乏だとは思ってなかったよ」


「最近は親がクビを切られたからさ。特に金がないんだ。だから真っ当なバイトもしてるよ」


 言い終わってから、「別に同情は要らないからな」と加える。


「時間厳守の堤が遅刻したのは、そのせいだったの?」


「遅刻?」


「図書室ではじめてサルトルの話をしたときだよ。普段なら絶対に約束の時間を破らないお前が、珍しく遅刻したじゃんか」


 堤は遠い目をしていた視線をこちらに戻して、


「ああ、思い出した。よくわかったな、タクシーを使わなかったのは節約のためだよ」


「じゃあ、あのときのココアはずいぶん価値があったんだね」


 彼は声に出さずに苦笑いした。

 皮肉ではなく、堤の律義さを茶化したつもりだったけれど誤解されたらしい。


 ともかく、ぼくが無益な劇場に立っていたのだとすれば、堤は罪過ざいかの沼に溺れているのだ。


 月に恋焦がれた陽子さんは死のうとした。

 そんな彼女の手を、ぼくが引き上げた。

 救ったと表現してしまうと傲慢な言い方だけれど、たしかに彼女の支えになることができたという自負が、あのキスの冷たさと唇の柔らかさの中にあるのだ。


 それと同じように、この男にも、堤というこの哀れな男にも、その泥沼から抜け出してほしいと、ぼくは思い始めていた。

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