第25話「堤」
堤に言われた居酒屋の
そういえば前にノートを返されたときもここだったのだ。
遅刻をしたわけではないのに、彼は既に酒を飲んで枝豆をしゃぶっていた。
容器は殻で山盛りだ。
「ずいぶん気が早いな。いつからここにいるんだよ」
ぼくが言うと、堤は赤ら顔をこちらに寄越して、
「さあ。三十分くらい前かな」
実を言うと、彼がアルコールに赤くしている姿をぼくははじめて見たので、席に着こうと椅子を引いた手が止まってしまった。
堤を酔わせようと息巻いてきたというのに、蓋を開けてみればすっかり酩酊しているとは。
「もう酔ってるか。何杯飲んだの?」
「まあ座ってくれよ。素面じゃできない話なんだ」
それもそうだと思い、座り心地の悪い木椅子に座った。
脚の先端が擦れているのか、学校の机のようにグラグラする。
なんだかぼくたちの関係性みたいだと勘繰った瞬間、途端に腹が立った。
「絵の方はどうだ」
「全然だよ、最近忙しくてさ」
そこでラミネートされたメニューから視線を外し、チラリと堤の方を見遣る。
それはもちろん「お前のせいだぞ」という言外の意味を込めてだ。
「なあ田辺、煙草を一本くれよ」
「はあ?」
彼は察しの悪い男ではない。
ぼくよりもよっぽど、他人の心情を看破する男だ。
つまり、目配せの意味に気付かないはずがないのである。
だからこそ煙草が欲しいだなんて突飛な発言に、ぼくは面を食らう。
「自分のは空なの?」
堤の手元には日本酒の
「いや、たまには他のを吸いたくてさ」
「まあ、いいけど」
ぼくはどこか釈然としない気持ちで、彼にホープを一本寄越した。
何も惜しいわけではない。
終始一貫して堤の言動がアンバランスなものだから、困惑してしまうのだ。
喫煙しない人間にはわからないだろうけれど、煙草にも銘柄ごとに味や香りが違う。
気分転換とはいえ、彼がぼくに煙草をねだるなんてはじめてのことだった。
「それで、話したいことって?」
ぼくが切り出すと、堤は今まさに咥えようとしていたそれを引く。
油と唾液が飛び散った、ろくに清掃されてもいないテーブルに置いて、お猪口をグイと傾けた。
喉に浸潤する日本酒のアルコールに眉をしかめ、咳払いをしてから、
「俺は犯罪者だよ」
そう告白した。
普段の毅然としたそれではない。
苦虫どころか糞便を飲み込んだような表情で、しかし目線はぼくの顔を直線的に貫いている。
「潔いんだな」
彼は鼻でフンと笑ってから、
「ここまできたら嘘も言い訳も通用しないだろ。それにもう疲れたんだ」
「何があったんだよ。牧田さんから聞いたマルチ商法の話って本当なの?」
堤は一度テーブルに置いたホープを鉛筆のように転がしては拾い、転がしては拾う。
馬鹿な受験生でもあるまいし、そんな手遊びをしている姿を見るのもはじめてだ。
「本当だよ。麻衣は嘘を吐かないし、誇張もしないから、田辺が聞いた通りだと思う」
それから「あいつはまともなだからな」と小さく付け足した。
それは堤本人はそうではないという自罰的な意味を必要以上に含んでいるから、ぼくは遣る瀬無かった。
悪人なら最後まで悪人でいてくれ。
善人なら最後まで善人でいてくれ。
人の本性なんて善悪の二元論では語れないことを、ぼくはもちろん知っている。
それでも、信じていた人間に裏切られたり、悪党だと決めつけていた相手に殊勝な態度を取られると、どうしていいかわからなくなるのだ。
白か黒か。
それこそ極端な二元論的思考は、ぼくの悪い癖だろう。
なぜって、今ではすっかり愛しい陽子さんに対してさえ、以前までは憎悪や嫌悪感を抱いていたのだから。
「大学に入ってすぐ、サークルの先輩に声をかけられたんだ。割のいいバイトがあるよってさ」
「どうしてお前がそんな怪しい話に乗るんだよ。馬鹿な人間じゃないだろ」
「いや、俺は馬鹿だよ」
自嘲するように歪めた口元で、ようやくホープを咥えて火を点ける。
罪を煙に巻くことなんてできるはずがない。
そう確信しているような眼差しで。
「俺は元々奨学金を借りて入学したから、金がなかったんだよ。家も余裕がなくてさ。それでつい乗ったんだ。それがさ、はじめに
「種銭って?」
「何かを始めるときに必要なお金さ。要は初期投資のことだよ。でも、今言ったように俺にはそもそもお金がない。だから学生ローンに行ったんだ。先輩に『英会話教室に通いたい』って言えば審査が通るって言われてさ」
学生ローンとはその名の通り、学生を対象にした消費者金融のことだろうか。
「その借金で投資に情報が入ったUSBメモリを買ったんだ。だから、はじめは投資の話だったんだよ。でも成果が出ないうちに、今度はそれを友人に紹介すればマージンが貰えるって話でさ。躍起になったよ」
「なあ、どうしてそもそも金が必要なんだよ。普通のバイトじゃだめなのかよ」
「自信がないんだよ」
「何が?」
「弁護士になる自信さ」
どうも要領を得ないのは自分が馬鹿だからではなく、堤の言葉が足らないからだ。
あれだけ理路整然とサルトルについて語ってくれた堤は、いったいどこへいったのか。
寂しさよりも底冷えした不安を覚えながら、
「前々から目指していることは知ってたけど、それがどう関係があるんだよ」
「俺がこの大学に滑り止めで入ったのは知ってるだろ。はじめは国立を目指してたんだよ。でも浪人はできないからさ。志望校に落ちた時点で、俺の夢だった弁護士っていう目標が、そもそも途方もなく遠いって気付いたんだ。国立に受からないような人間が、司法試験に合格できるはずがないってさ。もしそうなら、はじめから大学に来た意味もない。四の五に言わずに高校を出てすぐに社会人になった方がすぐに金は稼げるんだからさ」
「でも、いつだって必死こいて司法試験の勉強をしてただろう。大学の成績だって、このままいけば首席だ」
「してたよ、してたけどさ。そんな甘い世界じゃないんだよ。お前にはわからないだろうけどさ」
そこですっと、心の温度が下がったのをぼくは静かに感じた。
国立に落第して滑り止めに入学した男が、「自分の居場所はこんなところじゃない」と意固地になって周囲を見下す可能性は十二分にある。
今ここで、その傲慢さが「お前にはわからない」という言葉になって明瞭に出たのだ。
「ぼくはお前に、ずっと見下されていたのか」
大げさに眉根を寄せて、
「どうしてそういう風になるんだよ」
「まあいいよ。それで?」
「弁護士になれないなら、早々に手を引いてアルバイトをした方がいいと思ったよ。でも、諦めきれずにどっちつかずだった」
「だから勉強をしつつ、大金を手に入れるためにマルチ商法に手を出したってわけか」
堤はわずかに頷いた。
それは煙草の灰すら落とせないほど微細な動きだったけれど、彼のプライドを傷付けるには充分だったらしい。
むしろこの期に及んで何を守るものがあるのか。
「さっさと手を引けよ」
堤は何も言わない。
「おい」
「うるせえな」
彼の台詞に耳を疑う。
「どうにもできないんだよ、もう」
煙草の煙といっしょにそう吐き捨てる様は、つい先日の自分と同じじゃないか。
陽子さんにそっぽを向かれたと思い込んでいた自分と……。
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