第24話「生きる」

「天体望遠鏡を持ってるって田辺さんに聞いてから、ずっと興味があったんです」


 真冬の空気にも似た玲瓏れいろうな声色が、白煙をった。

 それと比べると、寒さに赤らんだ鼻先はどこか幼い印象を与える。


「それも、プラネタリウムのときだね」


 月に行きたい。

 陽子さんはそう言った。

 そして、ぼくはこう訊ねた。


 お母さんも棄てるのか、と。


 事実、彼女は決行したのだ。

 何もかもを棄てて、死のうとした。

 月へ行こうとした。


「いつかこの目でクレーターを見たいなって、そう思いました。あのときは、そればかり考えて、一人で泣いていました。そうして気が付くと、病院のベッドの上にいたんです。睡眠薬を飲んだ記憶は遠い夢みたいで、はっきりとしません」


 言葉足らずで誤解しそうになるが、彼女のいう「あのとき」はおそらく母親の急変を告げる電話を受けた状況を指すのだろう。


 月に思いを馳せながら、自分の命を投げ捨てようとするなんて。


「目が覚めたあとも苦しくて、ずっとうずくまっていました。でもここへ来ると、不思議な気持ちでした」


「不思議って?」


「月を見て、田辺さんのことを思い出したんです。そうしたらちょうど連絡が来て、びっくりしたんです」


「でも、会うのに躊躇したんでしょう?」


「はい。合わせる顔がありませんから。それなのにあなたが、ありがとうだなんて言って……」


 そこで彼女の鼻をすする。

 じんわりと目元が赤らんでいく。


「生きていてくれてありがとうって、私もお母さんに言いたいです。そう思ったら、もう死のうだなんて考えはなくなりました。あなたにそう言われる直前まで、首吊りなら失敗はしないかなってて考えていたくらいなのに……」


 最後の方は涙声になって、ほとんど嗚咽に近い。


「私、お母さんの最期を見る勇気を持てました。今ならきっと、逃げずにいられるかもしれません」


 そう言って、彼女は瞳に涙を浮かべながら白い歯を見せた。

 から元気ではない。


 愛する人の死を受容するとき、人間はこういう表情をするのだろう。

 死をこいねがった陽子さんは、むしろ以前よりも明るい雰囲気を纏っていた。


 彼女はバイト先に謝罪すると言って、すっと立ち上がった。

 自分もついていくと申し出るが、「頼ってしまいそうだから」と断られる。


「なら、ぼくはもう少しここにいるよ。一人で大丈夫?」


「子どもじゃないんですから」


 陽子さんは、しかし子どものように無邪気に笑った。


「天体観測、よろしくお願いしますね」


 踵を返した彼女の後ろ姿にはもう、厳粛な雰囲気も、病的な重苦しさもない。

 白いガウンはけっして雪に混じらないまま、春を迎えるのだ。


 春。

 それは、命が芽吹く季節。

 春。

 それは、そよ風に花の香りが泳ぐ光景。

 春。

 それは、ぼくのお父さんが迎えることができず、陽子さんのお母さんも見ることができない穏やかな色彩。


 見上げると、月は素知らぬ顔をしていた。

 陽子さんと話をしてから、ぼくにも変化があったのだろうか。

 以前よりも、恐怖心は湧いてこない。


 その代わり、どこか挑戦的な気概が、胸の奥で煮沸しつつあるのを感じた。

 もう四年間も忘れていた感情だけれど、今さらになってようやく思い出したのだ。


 生きてやる。

 生きて生きて、生きながらえてやる。


 親に貰った、ただひとつの生命いのちだ。

 無駄遣いでもいい、堕落したっていい。

 誠意や誠実を自分に約束したって、どうせ今この瞬間だけのものだ。

 三日坊主どころか、寝て起きたらまた同じことだろう。


 それが分かっているから、ぼくは自分に大層な確約を与えない。

 ただただ、生きるのだ。

 その言葉を胸にしまっておくだけで、もう充分である。


 陽子さんがそうしつつあるように。

 お父さんが目をつむるその瞬間まで、そうしていたように。


      〇


 堤からの電話は、一連の騒動に疲れ果てて眠っているときにきた。

 低血圧で朝に弱い人間でも、非常事態に瀕すれば、当然覚醒するものだ。

 陽子さんから連絡が来たときのように、眠気はすぐに消え去った。

 

「田辺、今話せるか」


 彼のトーンは普段とさして変わらない。

 


 ぼくはベットの上で上体を起こして、


「うん。どうした、マルチのことか」


 しかし、その一言にさしもの堤も動揺した。

 唾を飲み込んで、スマホを持つ掌は汗ばみ、全身に緊張が走って筋肉が強張こわばる。


 そんな彼の状況がたった一瞬の気配で読み取れたのは、ぼくの感性が鋭敏だからではなく、堤が電話口で息を呑んだからだ。


「もう知ってるんだな。麻衣から聞いたんだろう」


「そうだよ。俺も話したいことがあるけど、電話じゃお互い都合が悪いよな」


「今日の夜に大学で会えるか」


「いや、居酒屋にしよう」


 食い下がるように、


「込み入った話なんだ」


「分かってるよ、だからこそ図書室でなんかできないし、酒も入れた方がいいだろう」


 堤は数秒黙ってから観念したように、


「分かった」


 と低い声で言うと、一切の間隙なく電話を切った。

 一分に満たない通話でも、堤の様子は普段と違うことがわかる。


 切迫しているのか、疲弊しているのか。

 淡々とはしているものの、どこかその根底には焦燥感のようなものが見え隠れしていた。


 ともかく、アルコールに弱いぼくがわざわざ酒を提案したのは、酔いに任せて洗いざらい白状させようという算段があるからだ。

 自分よりも酒に強い堤を酩酊させるのは至難の業だけれど、やるしかない。


 悲しいけれど、今の心境はまるで悪を退治するヒーローのようだ。

 理由はどうあれ、マルチ商法に手を出している人間に情状酌量の余地はないからである。


 それにしても、友人を裁くのがこれほど苦いものだなんて、ぼくは想像もしていなかった。

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