第23話「お汁粉と紅茶」

 はじめてのキスは死人のように冷たかった。

 そして、一瞬の出来事だった。

 間違えて触れてしまったと、あとから言い訳ができるほどに。


 けれど、彼女は弁解や謝罪を口にしない。

 慌てるわけでも、目を逸らすわけでもない。

 その代わりに、じっとぼくの瞳を見つめながら、恐ろしさを感じさせるほどに美しい笑顔を見せたのだ。


 目を細める。

 月が欠けていくように。


 唇を半円にする。

 月がそうなるように。


 ぼくは言葉も出ず、ただ陽子さんと目を合わせながら、幸福を嚙み締めた。


 キスと言う行為は、普段の陽子さんとは対極にある印象だったのにもかかわらず、むしろ彼女は毅然としていた。

 と、思えばすぐに目を泳がせて頬を赤らめる。


「顔が赤いよ」


 思わずからかうと、彼女は首を振って俯いてしまう。

 髪に隠れていても、恥じらいから陽子さんの口元が緩んでいるのがわかった。

 ぼくもつられて、情けなくハハハと笑う。

 自分自身、照れと高揚で心臓がうるさかった。


「ねえ。もう一回、だめ?」


 ぼくの提案があまりの予想外だったのか、勢いよく顔を上げた彼女は目を丸くして、ぶんぶんと髪を横に振った。

 その慌てように、我慢できない微笑みがぼくの顔中に浮かんでしまう。


 陽子さんは以前、「あなたがまだ肉親との死別を受容できていないのに?」と自分を揶揄した。

 あのときの残酷で自分勝手な、それでいてぼくの魂をくすぐる甘ったるい苦痛の甘美はいまだに残っているし、その残滓をすくい上げて舌先で味わえば、たしかに陽子さん本人の苦しみにも触れられる気がする。


 彼女はかぐや姫ではなく、ただの人間だとしたら。

 もしそうなら、とんだ妖女だ。


 よくも同じ公園の同じベンチの上で、ぼくの魂を阻害する笑みと、ぼくの魂を毛布のように包みこむそれを使い分けられるものだと、そう思うからだ。

 

「おれは君が好きだよ、陽子さん」


「私もです。絵はがきを買ってくれたときから、ずっと……」


 そこですっと笑顔が消えて、


「でも、てっきり怒られるかと思っていました」


 一度のキスでは、自殺未遂の負い目は消えないのだろう。


「怒るもんか。おれこそ、ぼくこそ君の力になれなかったんだって思ったよ」


 おれ。

 ぼく。

 一人称に迷うなんて、中学生の男子かと自分でも呆れる。


 家族の前では「おれ」だけれど、彼女の前ではやはり「ぼく」でいたかった。

 だからといって、距離感がある証拠にはならない。

 どうしてか、陽子さんといっしょにいる自分は「ぼく」がシックリくるのだ。


 それはきっと、他に類を見ない「特別なぼく」だから……。 


「違うんです。むしろ田辺さんや麻衣ちゃんが好きだから、負担をかけたくなくって……」


「そうだったんだ」


 彼女のこと、嫌いにならないであげてね。

 こう言ったのは、牧田さんだ。


 つい昨日の昼のことだけれど、遠い昔に思える。

 とにかく、あのときぼくは、それを気休めだと勘違いしていた。

 女に見向きもされない哀れな男を慰める、それこそ一ミリも飛ばない紙飛行機のようなものだと。


 しかし、牧田さんは知っていたのである。

 単にぼくが見捨てられたわけではなく、頼りにされなかったわけでもなく、陽子さんにとって特別な存在だからこそ、何も言われなかったのだと。

 それに気付かないまま不貞腐れて陽子さんを嫌いになるなと、牧田さんはそう言ったのだ。


 それはようやく、ぼくの心に届いた。

 だって陽子さんは海だから。

 海風は牧田さんの言葉を乗せてぼくのもとへ届けたのである。


 そもそも未遂には終わったとはいえ、陽子さんが死を望んだ事実には変わりない。

 牧田さんだって、自分の無力さにうちひしがれたのだろう。

 むしろ陽子さんとより深い関係にあったのは、彼女の方なのだから。


 嫌いにならないであげてね。


 その上で、ぼくを励ましてくれたのだ。

 自分こそ、よっぽど傷付いているのにもかかわらず。


 やっぱり牧田さんには敵わない。


「田辺さんは前に、自殺も一つの選択だから、悪い行為だとは思わないって言っていましたよね」


「うん。でも、君には死んでほしくないよ。陽子さんのそばにいたいんだ」


「わたしも田辺さんのそばにいたいです。それなのに、あの瞬間は死ぬことしか考えられませんでした」


「無理もないよ。誰だってそうだ。それに、矛盾するようだけど、死んでしまいたいっていう君の気持ちを蔑ろにしたくもない」


「どういうことですか?」


「君の生きたいという気持ちも、死にたいという気持ちも両方ぼくにとって大切なんだ。陽子さん自身にとっても、その正反対な感情は大事だよ。だからこそ、ぼくは陽子さんが望んだときにだけ隣にいるよ。プラネタリウムを見たときに話したようにさ、お母さんの前では笑っていて、辛くなったら、ぼくのところへ来てほしいんだ」


 クリスマスを飛び越して、春はもうすぐだ。

 それほど、ぼくの口から出る音は熱い。


 当然だ。

 愛する人とキスをした唇から、色褪せた言葉が出るはずがないから。


「私、月を見たいです。田辺さんと二人で」


「月?」


 つき。

 その言葉を聞いて、心臓がドキリとする。


「君が行きたがっていた、あの月を?」


「私が行きたがっていた?」


「あっ」


 口が滑った、と思ったときには既に遅い。

 それを取り繕うように、あるいは助長するように、ぼくは住宅街の屋根の上に浮かぶ月を見上げた。

 ほとんど満月といっていいけれど、それは日を増すごとに欠けていく運命にある。


 つい口に出てしまったけれど、


「そういえば、たしかに私、言いましたね」


 彼女はおかしそうに笑って、


「まるで、かぐや姫ですね」


「うん。君はかぐや姫だよ。だから、君は月が好きなんだ」


「月は好きです。でも、かぐや姫なんかじゃありません。だって私は、あなたを忘れたくありませんから」


「本当に?」


「はい」


「嬉しいよ。本当に嬉しい。もう、それ以外に言葉が出てこないんだ」


「二つで一つですね」


「えっ?」


「白い息です」


 距離が近いせいか、たしかに二人の白息は一つになるように混じり合う。

 はじめからそうだったに違いないけれど、言われるまで気付きもしなかった。


 二人の唇が重なるなら、二人の吐息が混じり合うのなら、つぎはぎだった彼女の存在はようやく現在、「いま、ここ」に置かれたことになる。

 あるいは、ぼくがちぎり絵の世界に迷い込んだか。


 どちらでもいい。

 彼女と同じ世界にいられるのなら、そこが地球だろうと月だろうと、どこだって構わない。


「もし病院から連絡が入ったら、当日でもキャンセルしてね。それに途中で抜け出したっていい。あくまでも、陽子さんとお母さんの気持ちを優先してよ」


「ありがとう」


 彼女はかぐや姫ではない。

 けっして、けっしてだ。

 そう意識してはじめて、ぼくは目の前にいるこの女性が、自分と同じ血の通った人間であることを思い知った。


 そうしてベンチに置いていたお汁粉をようやく開けると、やはり彼女の手元で鳴ったようなカチリとした音がする。


 すっかり冷めてしまった小豆を噛んでいると、


「田辺さんは、ゼンマイを巻いたことがありますか?」


「どうしたのさ、突然」


 彼女が照れるように笑って、


「ごめんさない、蓋を開けたときの音がそう聞こえたんです」


「ないけど、陽子さんは?」


「一度だけ。子どもの頃、おじいちゃんの家で振り子時計を触ったんですよ。歯車がどうこうって」


「へえ。歯車……」


 歯車と言えば、ぼくたちの関係もそうだった。

 二人のそれは最初、噛み合わせが悪いのか油を差していないのか、どうにも上手く回らなかった。

 けれどぼくが父さんの命日をきっかけに前向きになった影響か、ゆっくりとそれが回るようになった気もしたのだ。


 プラネタリウムのときに回り始めた歯車は、陽子さんの自殺未遂という事件によって、昨日一度止まってしまった。


 それを再度回したのは、他でもない、ぼくたち二人である。

 ぼくと陽子さんがゼンマイを巻いたのだ。

 カチリ、と。


「前にお汁粉をくれましたよね」


「そうだね。二回目に会ったときかな」


「だから、今回は逆にしたんです。私があげる番で、お汁粉も紅茶も逆です」


「ああ、たしかにそうだね。ぼくは紅茶を飲んだよ」


 彼女は時々、そういう遊びをする。

 でも、それもこれも、すべて繋がっている気がした。


 この公園で喧嘩をしたときも、たしかにぼくたちは紅茶とお汁粉をそれぞれ開けたのだから、ゼンマイを巻いたことになる。


 彼女が母親の病状をぼくに訴えた。

 ぼくはそんな陽子さんを軽蔑した。

 そして彼女は月へ行きたいと行った。


 口論をしているときでさえ、いや、むしろお互いの感情を真正面からぶつけ合っているからときこそ、歯車は回ろうと必死に身をよじっていたのだ。


「あのとき、ぼくたちは隣じゃなかった」


 彼女が小首を傾げる。


「同じベンチに座ってはいたけど、お互い端に座って、真ん中が一人分開いていたじゃない?」


 彼女は「ああ」と理解したように頷いたあと、微笑んだまま何も言わない。


 そう、一人分の余白があれば、キスはできなかった。

 ぼくが彼女にあたたかい飲み物をあげなければ、蓋は開かなかった。

 蓋が開かなければ、今になって彼女がお返しをくれることもなく、ゼンマイという言葉も出てこなかった。


 赤い糸とよくいうけれど、ぼくたちの場合は違うらしい。

 生と死の混濁が、二人を引き合わせて繋げたのだ。

 

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