第22話「公園2」
「陽子さん」
呼びかけると、彼女はビクリと肩を上げた。
冬のガリガリとした路面だから、足音は聞こえていたはずなのに。
つまり彼女は驚いたのではなく、怯えているのだ。
事実、こちらを一瞥してすぐに俯いた表情には、親に叱られるのを恐れているかのような子どもじみた気まずさがあった。
自罰的で寂しい様は、まるで一か月前の彼女だ。
実際、公園に二つあるベンチの中で、陽子さんは以前と同じそれに座っていた。
一度見た光景だというのに、どこか違和感を拭えない。
彼女だけ、過去から切り取って今に貼り付けられているかのような感覚。
世界と接している彼女の輪郭が、どこか歪んでいるように見えて仕方ないのだ。
ああ、つぎはぎだ。
不出来な「ちぎり絵」のように、不釣り合いな作品を彼女の存在そのものが作り上げてしまっているのだ。
月の引力か、あるいは異国の絵画に魔力でもあったのか、どこか時間が巻き戻された気がする。
ぼくは以前のような嫌悪感を、陽子さんに抱いていない。
けれど、今だけは、今だけはこう思った。
男を棄てた女がする表情ではけっしてない、と。
「ありがとう」
だからぼくは立ち尽くしたまま、水滴を落とすようにそう言った。
まるっきりの嘘というわけではないけれど、ほとんどは意表をつくためのハッタリだ。
「何がですか?」
いつから公園にいたのか。
舌足らずな
「生きていてくれて、ありがとう」
怯える姿があんまり悲しいから、その相好を崩すための猫騙しのつもりだったのに、いざ口に出すと、それは自分でも意外なほど真実味と感情を帯びていた。
真冬の夜明け前は、当然のように氷点下だ。
路面は凍り、軒先には
それでも、その言葉の熱だけは冷ますことができないようだ。
なぜって、ぼくの口元から発せられた思いは、熱病のように彼女に伝染して、じんわりとその瞳に雫を浮かばせたのだから。
生きていてくれてありがとう。
その通りだ。
一点の曇りなく、それはぼくの本音だ。
「お礼を言われる筋合いなんて、ありませんよ。だって……」
だって、ぼくを裏切ったから?
「座ってもいい?」
「はい」
彼女は頷くと、そのまま顔を上げずに
そうして身じろぎもせず、ぼくが腰を下ろすのを全身を強張らせて待ち構えている。
たしかに「待ち構えている」という大層な表現がお似合いなくらい、彼女は緊張していた。
それは冷気と同じくらいぼくの頬や鼻先を
それでも意を決してゆっくり、彼女に歩み寄った。
そうして最後の一歩を踏み出そうとしたとき、思わず目前で足を止めてしまった。
陽子さんのつむじに、月光を遮る影が下りる。
彼女は、三人がけのベンチの左端に座っていた。
もちろん自分が隅に座ろうとする際、彼女は雪を払い避けただろう。
誰だって、雪の上にお尻を乗せようとは思わない。
ぼくが最後の一歩を踏み出すのを躊躇ったのは、彼女の隣、つまり座面の真ん中も既に払われていたからだ。
その代わり、右端は開封したばかりのバニラアイスのように積み上がって、表面を甘く輝かせている。
ぼくは彼女のいじらしさに胸が張り裂けそうになった。
たまらなく、愛おしく思った。
彼女の仰せのままに、ぼくは陽子さんの隣に座る。
一人分の空白もなく、自分のコートと彼女のガウンがこすれ合うほど近くに。
「これ、どうぞ」
彼女はフワフワとした暖かそうな手袋で、ぼくにお汁粉を渡した。
既に冷めかけている温い温度も、冷え切った身に沁みる。
「陽子さんは紅茶なんだ」
「はい。もう冷めちゃいましたけど」
彼女は自分の紅茶を見せてから、キャップを捻る。
カチリという音を聞いて、
「まだ開けてなかったの? 先に飲めばよかったのに」
「あなたが来るまで待っていようと思って」
「いつからいるの?」
「病院から家に戻ってから、ずっとです。だから陽が沈む頃です」
「身体は平気?」
「あの、田辺さん」
わかっている。
「ごめんなさい」
知っていた。
「謝らないでよ。ぼくは本当に、君が無事だっただけで充分なんだ」
それから「力になれなくてごめん」と自分こそ謝ろうとするが、意味がないどころか、陽子さんの気を病むと考えて口元に留める。
以前なら軽はずみに伝えて、彼女に余計頭を下げられたことだろう。
少しずつ、二人の関係は変化しているのだ。
「私こそ、こんな寒空に呼び出して……。大丈夫ですか?」
「これがあるから寒くないよ」
そう言ってぼくは笑う。
陽子さんの紅茶と違い、ぼくのそれはアルミ缶だ。
熱の伝導が強い分、本当に彼女より温かいだろう。
そこまで
「説明させてほしいんです。あの日のこと」
「聞かせてほしいな」
「十六日の夜明け前、ちょうど今頃でした。母親が急変したっていう連絡が、病院から来たんです。私、それで取り乱しちゃって、どうしていいかわからなくて」
陽子さんの臆病な声に、ぼくはその目をまっすぐに見つめながら耳を傾ける。
言い訳のように彼女は言葉を連ねるけれど、さきほどの自分にも似た感情の熱が、奥底にたしかにあった。
「でも、お母さんの死顔なんて見たくないから……」
「睡眠薬を飲んだんだね」
「はい。母は安静を取り戻したって、目を覚ましてからベッドの上で聞きました。今もまだ、意識はあるようです」
自分だって、父さんの臨終の際には目を逸らしていた。
夢の中でさえも、父さんが懸命に生きようとする姿を見ずにいた。
何が窓だ。
心電図だ。
透明のチューブだ。
悲しい色のスイートピーだ。
見るべきものは、死につつある生者の瞳だろうに。
「後から聞いた話なんですけど、喫茶店の店長が私の家に来て救急車を呼んでくれたんです。私みたいな急患は夜に多いらしくて、でも自分は軽症でした。そうして今日、いや昨日の夕方過ぎに自宅へ戻りました」
「そこからずっと、ここにいるんだね」
彼女は頭を縦に振って、
「家に戻ると、ベッドのシーツが変わっていました。意識がないときに吐いてしまったんらしいです」
それをしたのは牧田さんだと、ぼくは根拠もなく思った。
辛かったね。
はじめに浮かんだ慰めはこれだ。
でも、あまりに陳腐じゃないか。
あまりに薄っぺらいじゃないか。
それは感情がこもればこもるほど、強く相手の心を揺らすのだ。
辛かったね?
そんなものは一ミリも進まずに地へ落ちる。
そうして雪に覆われて、春になれば泥と同じだ。
死期の迫っている母親を抱え、自分も自殺を決意するほど追い詰められた女性にかける言葉を、ぼくは知らない。
だから、牧田さんの言われた通りにした。
その林檎のように真っ赤なほっぺたを、丸めた左手でそっと撫でたのだ。
見えない涙を拭うように。
消えない痛みを溶かすように。
気恥ずかしいなんて思わない。
そんな恥じらいはプラネタリウムに捨ててきた。
ぼくの
目を丸くするわけでも、手を払い避けるわけでもない。
ずっと頬を触れてほしいかのように、ぼくの手を押さえて、自分の顔にあてがったのだ。
そうして、泣き疲れた子どものように目をつむる。
ぼくの体温は、紅茶のペットボトルに勝ったのだ。
そんな優越感や彼女に受容された幸福を味わう暇もなく、陽子さんはぼくの手を握ったままグイと身体を寄せる。
いや、こちらが引っ張られたのかもしれない。
どちらにせよ、気が付いたときには二人の唇はたしかに重なっていた。
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