第21話「かぐや姫」

「ほら」


 そう言って、彼女はティッシュを寄越した。

 ポーチではなくポケットに入れていたのか、それは牧田さんの体温がした。


 目元を拭って鼻をかむ。

 鼻孔を抜ける風邪のにおい。

 それを打ち消したくて、急いで煙草を点けた。


「彼女のこと、嫌いにならないであげてね」


 牧田さんはそう言う。

 嫌いになるわけないじゃないか。

 そう反論しようとしたぼくは、口を噤んだ。

 彼女は、ぼくが裏切られて傷付いていることを肌に感じていたのだ。


「ずいぶん遠回しに慰めるんだね」


 不味い煙から出た皮肉に、牧田さんは笑う。

 まだ目尻は赤いけれど、彼女も涙は止まったようだ。


 タール臭い唾を飲み込んでから、


「ぼくは海が嫌いなんだ」


「海?」


「うん。お父さんが死ぬとき、母さんは泣いてた。その嗚咽が潮騒に聞こえて、それからずっと海が嫌いだ。月も大嫌いだ」


「うん」


「さっき病院に向かっていたときも、ずっと聞こえていた」


「不吉なものなんだ」


「そうだよ。波立つと、怖くて鳥肌が立つんだよ」


 そこでふいに、彼女はぼくの頬に触れた。

 煙草を持っていない方の指先で、あやすように撫でたのだ。


 唐突な行為に狼狽して、


「なんだよ」


「今も鳥肌が立っていたから」


「それは寒いからだよ。海は関係ない」


 話を腰を折られて、一挙に口を開くのが億劫になる。

 いったい何を考えているのかと苛立ちを覚えるぼくに、

 

「陽子ちゃんもきっと、同じ気持ちだよ。怖い思いをして、辛い日々を生きて。だから田辺君は撫でてあげてよ。あの子のほっぺをさ」


 そういうことか。


「もう、いい」


 煙草を勢いよく吸うと、火種が赤らんで熱が増す。

 高温のそれは味が辛くなって、舌には麻痺するような痛みが残る。


「おれは捨てられたんだよ。フラれたんだよ。あの子は、おれを棄てて月に行こうとした。それだけの話」


「おれって言うんだ」


「は?」


「ずっとぼくだったのにさ」


 牧田さんの笑顔は痛々しいわけでも、嘲笑の色もない。

 まるで自転車の補助輪が取れる前から、ずっとぼくを見守ってくれている姉のような表情だ。


 陽子さんに不満をぶつければ、相応の反撃がある。

 あの公園のときがそれだ。

 

 しかし牧田さんはぼくが粗相をしても、ずっと笑っている。

 あるいは、きちんと叱責してくれる。


 二人の女性は、ぼくからすればどちらも年下だけれど、その存在はまるで対極の意味合いを持っていた。


 ぼくは陽子さんに依存されたい。

 甘えてほしいのだ。


 そして牧田さんには依存したい。

 甘えさせてほしいのだ。


 一度でもそう考えると、途端に気恥ずかしい。


「もう行くよ。できることはないからさ」


「そうだね。何かあったら店長に連絡してもらうから、そのときは私が田辺君に伝えるよ」


「ありがとう」


「それとさ。寂しくなったらいつだって声をかけてくれてもいいんだからね」


 ぼくは思春期の弟のように、片方の口角を歪めるだけだった。

 それは乾燥した唇に煙草のフィルターが貼りついて薄皮が剥がれただけだ、という言い訳を胸に閉じ込めながら。


 その晩は、家に帰っても寝付けなかった。

 牧田さんとバーに行ってからほとんど一睡もせずに朝を迎え、それから陽子さんの病院へ向かったのだから、泥のように眠って当然なはずだ。


 たしかに眠気はあるけれど、それは瞼を下ろすほどの重さはない。

 ただ脳味噌の中に泳いでいる言葉を溶かして、ぼくに考える余地を与えないのだ。


 そんな自分にできることは、唯一、煙草を無為に吹かすことだけである。


 目前には書きかけの水彩画。

 その奥へ焦点をあてると、モネの睡蓮がある。


 深夜二時。

 意地でも電燈を点けない部屋は、けれど真っ暗でもない。

 街燈の明かりが射し込んで、お父さんの夢を見た朝のヘッドライトほどではないにせよ部屋を薄く明らめるからだ。


 だから不出来な春と、停滞した睡蓮の池は静かにぼくの瞳に浮かんでいる。

 茫然とそれらを代わる代わる眺めているうちに、自分がなぜモネの睡蓮を好むのかを少しだけ理解した気になれた。


 池に浮かぶ睡蓮は、ちっとも動いていない。

 その絵の中では、風も吹かない。

 潮騒も、けっして流れてこない。

 

 ぼくにはそれが心地いいのだ。


 死の悲痛を思わせるのが海だとしたら、波が立たない池は正反対の存在だ。

 だからこそぼくは安寧に身を沈めるため、『睡蓮』を欲したのだ。


 奇しくもそれは、柿崎陽子と牧田麻衣の二人の女性と符合する。


 ぼくを動揺させる海が陽子さんで、

 ぼくを安静させる池が牧田さんだ。


 そして水面に月を浮かべているのは、もちろん海の方である。


 陽子さんはいまだ安否を確認できる状態ではない。


 牧田さんは最後までぼくを気にかけてくれたけど、彼女に事情を説明する気力もなくって、半ば突き放すように別れた。


 ぼくの涙を、彼女は完全には理解していないだろう。

 理解してほしいと、全てを受け容れてほしいと思う一方で、やはり負い目があった。


 なぜって、ぼくは陽子さんを死に追いやろうとした罪を抱えているから。

 それにきっと、順を追って説明したって牧田さんは腑に落ちないだろう。


 陽子さんは月に行くために自殺を図ったんだ。


 そんな意味不明な妄言に、誰が納得するというのか。

 だからこれは、ぼくと陽子さんの二人にしか共有できない歪んだ死生観だと思う。


 陽子さんからラインが届いたのは、ようやく数時間の睡眠が取れた頃だ。

 ピロンという一度きりの通知音で、ぼくは驚くほど素早く覚醒した。


 目をこする必要も、あくびをする必要もない。

 普段のような高揚感だって、もちろんない。

 むしろ死人の肌のように冷え切った感情が、腹の底に沈殿して離れないのだ。


 煙が充満する部屋のベッドに腰かけ、やはり電気を点けずにスマホを見た。


 ごめんなさい


 そうあった。


 その文面は予想通りで、スマホを手に取る前から知っていたことだ。

 こんなときだというのに、多少は陽子さんの行動を予想できるようになった自分にくだらない自尊心を覚えるも、今度はそんな自分に自己嫌悪したものだから、結局は相殺されて後には虚無だけが残った。


 謝罪の下には、自殺未遂に至った経緯は一つとしてない。

 説明する気がないのか、今まさに文字を入力しているのか。


 どちらでもいい。

 ぼくは意趣返しをするようにただ一言、


 家に行きたい


 とだけ返事をした。


 すぐに既読が付いたのにもかかわらず、たっぷり三十分は待った。

 そうして、ようやく承諾の返事がきたと思えば、提示された場所は彼女の自宅ではなく、例の公園である。


 胃の洗浄をしたばかりの弱っている身体からだに厳寒は悪いと思いながらも、ここで彼女にへそを曲げられては目も当てられない。


 そう考えたぼくは一抹の不安を抱えつつも、それに従った。

 正直ぼくは、自分を棄てようとした女性に対して、どういう顔をして会えばいいか見当もつかない。


 それでもすぐに歯を磨いてマフラーを巻いてコートを羽織ると、早足気味に冬道を歩いた。


 朝の五時。

 太陽も寒いと布団から出づらいのか、冬は顔を出すのが遅い。


 氷の轍になって歩きにくい道を跳ぶように進んだ。

 すぐに冷たい空気が肺をいっぱいにするから、息も上がるし咳も出る。


 刺すような冷気の中で公園に辿り着くと、空の下で、この星の上で、陽子さんはベンチに座っていた。

 ああ、月の都に行きそびれた、哀れなかぐや姫……。 

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