第20話「置き去り」
こんな時に限って、陽子さんから返事がない。
牧田さんと会った晩に送ったメッセージにも既読がつかず、とうとう辛抱できなくなって朝方に電話をしたけれど、それにも出ないのだ。
牧田さんにそれを伝えると、彼女の方にも連絡がないとのことだった。
ぼくの胸中に渦巻く不安は、いよいよ膨れ上がっていく。
苛立ちの伴う焦りをどんどんと募り、それでもどうしようもない。
歯がゆい気持ちが空回りする中で、美術館で見たあの横顔が、夜明け前の公園で見たあのひそめた眉根が、喫茶店で見たあの幸福そうな笑顔が、ぐるぐると巡っていた。
隠しようもない。
ぼくは陽子さんが好きだ。
プラネタリウムで嘘の星々に囲まれているときに気付いたように、好きなのだ。
陽子さんは、ただでさえ病人を抱えている身である。
そこに馬鹿げた与太話を吹き込まれたら、どうなるか分かったものじゃない。
堤はそこまで知っているのだろうか。
彼女の事情を把握したうえで、毒牙にかけようとしているのか。
そもそも彼がそのような人間だなんて今でも信じられなかった。
しかし、一連の話がすべて事実なら、彼はずっと自分を弄んでいたことになる。
これまでの激励やアドバイスは、虚構だったのかと。
その時、スマホが震えた。
何時間も握りしめているスマホには、牧田さんからラインが届いている。
そこには病院の名前と、病室の番号、そして面会時間がある。
その下には理由が端的に書かれていた。
陽子さんが自殺未遂をしたらしい。
ぼくは心臓が痛むのを感じた。
そして、聞こえつつあるのはあの海辺の音だ。
そうか。
これは死の足音だ。
母さんの嗚咽が、死を予期させる潮騒に変わったのだ。
ぼくは急いで電話をかける。
着信音は一度で切れた。
咳き込むように、
「牧田さん、どういうこと?」
「私、今もうタクシーで病院向かってるの。拾ってあげるから、住所教えて!」
手早く伝えると、タクシーはものの数分で来た。
歯磨きをする暇もなかったのでマスクをする。
寝ぐせはどうでもいい。
「あのね、まず命に別状はないの」
ぼくが乗り込むと、隣に座る牧田さんが開口一番に言った。
自分の聞きたいことを簡潔に教えてくれる彼女はありがたい。
「はじめから順番に教えてほしい」
「私も陽子ちゃんにラインを送り続けていたんだけど、返事がなかったんだ。それで喫茶店に電話をしたら、彼女が出勤していないって」
アルバイト先が同じだったことが、ここで活きたのだ。
「無断欠勤なんてするわけがないから向こうも心配がっててさ。それで履歴書の住所に店長が行ったら、陽子ちゃんが倒れていたって。すぐに救急車を呼んだらしいよ」
「それで、自殺未遂ってどういう状況なの?」
一口に未遂と言っても、その後の状況は千差万別だ。
重大な後遺症が残るケースもあれば、すぐにでも日常生活を送れることもある。
「自殺の手段は睡眠導入剤の過剰摂取だって言われたよ」
「睡眠薬?」
黙ってうなずく彼女は、
「でも陽子ちゃんに心療内科の通院歴はなくって、お母さんに処方されたものを服用したって電話で聞いたの」
「どうして?」
「えっ?」
「どうしてそんなことをしたの?」
「わかんないよ」
堤が一枚嚙んでいるのではないか。
あいつのせいで自殺に走ったのではないか。
言葉にせずとも、ぼくたちの中には共通してそういう疑念があった。
タクシーの車内は煙草臭い。
そのにおいを感じた瞬間、そういえば陽子さんとお見舞いに行く時もそうだったと思い出す。
病人の母親をお見舞いする陽子さんが、今度はその立場になるだなんて。
つまらない皮肉だ。
だからぼくはこの世界が嫌いなんだ。
ぼくたちはタクシーを降りて病院の受付に駆けつけると、奥の方へ通された。
待合室ではなく、ただの廊下に置かれた寒々しいパイプ椅子である。
せんべいのように薄くなった布張りのクッションで、お尻が痛い。
どのくらいだろうか。
二人は迷子のように座っていた。
金曜日の午後ともなれば、外来も多い。
総合受付と待合室のある向こうはガヤガヤと騒がしいのに、こちらの廊下はほとんど誰も通らずにシンとしている。
置き去りにされた気分だ。
救急車に同乗してくれた店長は既に喫茶店に戻っているらしい。
陽子さんの母親には連絡がいっているのだろうか。
別の病院とはいえ、この瞬間に
暇を持て余したぼくは、けれどスマホをいじる気分でもない。
それは牧田さんも同じようだ。
そこでようやく、彼女がメイクどころか髪も整えていないことを知る。
それでも瞳は大きく、綺麗な二重が緩やかな曲線を伸ばしている。
化粧で取り繕わなくなって、もとより彼女は美人なのだ。
しかしそんな美貌も、今ではすっかり白んでいる。
「私もマスクをして来ればよかった」
僕の視線に気付いた彼女は、物静かな廊下でそう呟いた。
陽子さんの自殺を、予想できなかったわけではない。
父親と離別し、母親までもが死に瀕している状況で、まだ十代の女の子が正常な精神を保てるはずがないのだ。
ぼくは彼女とはじめて会った時から、その瞳に、その髪先に、その声色に、死の色を感じ取っていた。
ぼくははっきりと、近いうちに彼女が自殺をするのを知っていた。
にもかかわらず、自分は彼女を亡くすことで享受されうる平穏を待ち望んで、目を逸らし続けてきたのである。
ぼくは遅効性の毒を彼女に与えたのかもしれない。
それから二時間ほど経ったところで、医師が来た。
いわく、活性炭と下剤をチューブで流し込んで胃の洗浄を行ったという。
服用した薬剤が少量なため、心臓発作や痙攣、昏睡などの深刻な状態には陥らず、容態は安定したとのことだ。
それを踏まえて、自分らは帰宅するように言われた。
ぼくは食い下がったけれど、牧田さんに袖を引っ張られた。
自分たちにできることはないと、ぼくだって知っている。
それでもいてもたってもいられないのだ。
結局は牧田さんに宥められ、ぐずる子どもを母親があやすような形で彼女に従った。
もう、情けなくてしかたがない。
「喫茶店には私が連絡を入れとくよ」
寒空の下で、牧田さんが言った。
普段の快活な声ではない。
疲弊した、少し酒焼けしたような声色だ。
陽が沈む時間ではないが、分厚い雪雲のせいで外は室内よりも暗い。
「煙草でも吸おう。あげるよ」
「ありがとう」
雪ですっかり白線が埋まった横断歩道を渡って、ぼくたちは病院の向かいにあるコンビニの灰皿を囲む。
口から出る白は、煙か息か知らない。
煙草を吸っているのかため息を吐いているのか、それも知らない。
僕も彼女もだ。
「堤君のせいだと思っているの?」
牧田さんが訊ねる。
それは沈黙を破るというにはあまりに遠慮した、弱弱しい音だった。
唇に真っ赤なルージュがないと、そこから出る言葉にも威勢がないかのように。
「さあね。だって、あいつが何をしているのか、陽子さんをどこまで巻き込んでいるのかが分からないからさ。それはあとで堤から聞くよ。でも、それだけが原因ではないと思うんだ」
「うん、私も……。きっと、お母さんのことでしょう?」
牧田さんの言う通りだ。
「早くよくなるといいけど。もうクリスマスも近いしさ」
「クリスマス? 何かあるの?」
「誘うんでしょう? 田辺君。彼女のことを」
こんなときに何を言っているんだ、とは思わない。
なんにでも恋愛に関連付ける中学生の雑談ではないのだ。
今、陽子さんに必要なのは、きっと傍にいてくれる存在なのだろう。
「でも、彼女はぼくに何も言わなかった。何も言わずに死のうとしたんだよ」
牧田さんが煙草を吸うのに夢中なフリをしたので、追い打ちのようにこう言った。
「ぼくは捨てられたんだよ。陽子さんに。どうでもいい存在だと思われてる。だから、黙って月へ行こうと――」
そこでぼくは言葉を切る。
「月?」
「いや、なんでもないよ」
つい口をついて出てきた言葉を紛らわすために、それを燃やして煙にした。
処置室の前の廊下で座っていたときに感じた孤独は、陽子さんに対してだったのだと今になって思う。
置き去りにされる。
置いて行かれる。
なら、彼女はどこへ行く?
月だ。
彼女は本当に月へ行こうとした。
プラネタリウムの休憩所で、ぼくがすべてを捨ててでも月へ行きたいのかと聞いたとき、陽子さんはたしかに否定しなかった。
月。
プラネタリウム。
あの横顔……。
高熱を出したように、額が熱くなった。
「ねえ、田辺君」
「え?」
彼女に呼びかけられて、ようやく気付く。
音もなく、涙を流していたのだ。
「大丈夫だよ。命は助かったんだしさ。ね?」
彼女は煙草をさっと灰皿に投げ入れて、ぼくの肩に手を置いた。
手袋も忘れたのか、寒さで真っ赤になっている。
その手に、自分の掌を重ねた。
それは男女の意味合いではない。
うちひしがれた者同士の、傷のなめ合いだ。
「泣かないでよ、私まで悲しくなるから」
そういう彼女の瞳は、すでに潤んでいる。
唇にヒビを作る冬の空気ですら、それを乾燥させることはできない。
「違う、違うんだよ」
ぼくは泣きながら言った。
この事件は、やはり自分が誘因したのだと痛感したのだ。
だって、だって、
半円のスクリーンに浮かぶ偽物の月を見せたら、陽子さんは本物の月に行きたくなるに決まってるじゃないか。
そう思ったのだ。
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