第19話「不穏」
ぼくは煙草を取り出してから箱を持ち上げて、
「吸って良いよ」
「ありがとう」
彼女はさっそく一本点けて、細く煙を吐いた。
「牧田さんも、あのお店で働いていたんだね。もしかして今も?」
「ううん。今年の夏ごろに辞めたんだ。留学に行くためにさ」
「留学? それってもしかしてカナダ?」
ふいに
「彼から聞いたんだね。そうだよ」
「堤からは、ほかに男を作ったって聞いたけど」
牧田さんは煙を薄く吐くけれど、ただの副流煙か口元だけで笑ったのかは分からない。
「それは嘘だよ。ひどい嘘。本当は嫌いになっただけ。てっとり早く別れたくてさ。もうラインもブロックしたんだ。だって、そもそもフリーだから合コンに参加したんだもん」
一理あると思いながら、
「ひどい嘘って、どうしてそんなことを言うの?」
「さっき、同じバイト先で働いていたって話したでしょう? 私と陽子ちゃんは一歳違いの先輩・後輩だったの。一緒に働いていた時期は三か月もないけれどね」
「はじめから知っていたんだね。ぼくが陽子さんの話をしていた時から……」
「うん、私がバイトを辞めたあとも交流があってさ。十一月のはじめころかな。素敵な人がいるって教えてくれたの。田辺くんっていう名前もね」
そうか。だから彼女は合コンでぼくに話しかけたのだ。
そこにはもちろん、あの場で浮いていた自分へのフォローもあったのだろう。
しかし、それ以上の意味が隠されていたのだ。
今思い返せば、趣味の話から絵画に派生して、美術館やモネの話題が出たのも偶然ではなかったのである。
それと、陽子さんがぼくのことを「素敵」だって?
それは恋愛感情か、あるいは彼女特有の不可思議な感覚のよるものか、それも分からない。
牧田さんのことも陽子さんのことも、ぼくにはわからないことばかりだ。
そもそも、自分自身だって判然としないのだから……。
「私、田辺君と陽子ちゃんが二人で見たっていうモネに興味があったの。それでモネが好きって嘘をついたんだ」
嘘ばっかりだね。
口に出さなかったのにもかかわらず、
「ごめんね」
と牧田さんが謝った。
「だからあんなに熱心に見入ってたんだ。陽子さんのことを思いながら」
ぼくは言いながら、重大なことに気付く。
「ねえ、陽子さんは牧田さんにどういう話をしてるの? その、ぼくのことを。さっき素敵だとは言っていたけど、他にさ……」
「それって私が言うこと?」
「だって……」
ぼくの恥じらいに、彼女が目を細めた。
今度は煙に隠れずに、はっきりとバーの照明の下で微笑んだのだ。
陽子さんに対しては明瞭に年下だと実感するけれど、目の前にいる牧田さんにはいつも年上に感じる。
それは容姿というよりも、余裕のある立ち振る舞いが理由だ。
牧田さんは一枚も二枚も
そう思っていると、彼女は急に表情を固くした。
「それよりもね、彼女と堤君のことなんだけれどさ」
声音も唐突に低くなったので、ぼくは身構える。
それに堤という場違いな言葉に、この次に出る話に欠片の準備もできないのだ。
「あのね、堤君には近寄らない方がいいよ。多分、あの男は田辺くんも陽子ちゃんも不幸にするからさ」
牧田さんは手早く煙草をもみ消して、
「別に別れたからって悪口を言いたいわけじゃないの。本当だよ」
そんなことはどうでもよかった。
それよりも、
「どうして堤が出てくるの? あいつは陽子さんと知り合いなの? 不幸ってどういうこと?」
一挙に頭が混乱する。
「付き合っている頃、私が彼をバイト先に呼んだときに、陽子ちゃんとも知り合いになったんだ。だから、あの子も餌食になりそうで怖いの。そもそも私が堤君を嫌いになったのは、あの人が怪しいことをしているからなんだ」
ぼくが口を開く前に、
「あ、ピザとパスタを頼もう」
彼女は手を上げてボーイを呼んだ。
食欲なんて失せていたけど、ぼくは何も言わない。
声を出す余裕もなかったからだ。
このタイミングで話を区切るのも、事態を飲み込めないぼくへの配慮だろう。
ひとひらの沈黙の中で彼女の表情を窺いながら、雪国を一口含む。
うなだれたような瞳に、まだぼくに話していない深刻な事実があるのだと思い知る。
舌には砂糖の甘さが残らない。
喉にはお酒の痺れが広がらない。
便意を催すのは、アルコールのせいではなく緊張のせいだ。
「怪しいことって何?」
恐る恐るぼくが訊ねると、
「私も詳しくは知らないけど、いわゆるマルチ商法とか情報商材ってやつ」
頭の中がふわりと渦巻くのを感じた。
やっぱりそれも、酔いが原因ではないのだ。
堤のような勉学も運動もできる男が、自分を慰めてくれた男が、何に対しても誠実で実直な男が、そんなものに手を出していただなんて。
にわかに信じられなかった。
そんなぼくの表情に呼応するかのように、
「人は見かけによらないんだから」
そう呟いて彼女は喉を上下させた。
「もう、堤君は陽子ちゃんに近づいてるよ」
ふわりと椅子に座っている感覚が薄れていく。
「近付いている? あいつが陽子さんに?」
感情が抑えられなかった。
「なあ、なんで、どうしてもっと早く言ってくれなかったんだよ」
自分の口から出る言葉は、牧田さんへの理不尽な怒りだった。
それを頭の片隅で自覚できるのなら、本当は冷静なのかもしれない。
それは我を忘れるよりも、よっぽど愚かじゃないか?
「だって、陽子ちゃんからそれを聞いたのが今日なの。それで田辺君に相談した方がいいと思っていたところに、あなたから連絡が来たんだ」
無益な罵声を浴びても、彼女はあくまで冷静だった。
ぼくに反論するわけでもなく、むしろ本当に彼女本人について非があるかのように眉を下げたのだ。
「ごめん、せっかく教えてくれたのに」
ううん、と首を振る彼女の表情に苛立ちの色はない。
――なるほど、今日会いたいというお誘いに、すぐ返事が来ていたのはそういうことだったのか。
「心配かけたくないって、彼女は田辺君には言わないって。だから私が代わりに言うんだ」
「さっき餌食って言っていたけど、それはどういうことなの?」
「はじめにお金を払うけれど、継続的に稼げるっていう話。それを他の人にも紹介すれば、その分の紹介料が入るらしいの」
「はあ? なんだよ、典型的なマルチじゃないか。僕から話してみるよ。堤にも、陽子さんにも」
僕は今すぐにでも陽子さんの声を聞きたかった。
前みたいに牧田さんをほっぽってでも。
「うん。私もどうにかするよ」
「でも、どうしてあいつはそんなことを始めたの?」
「知らないよ、そんなこと」
許可は取らずに、彼女はぼくの煙草を抜き取った。
はなから責める気はない。
それよりも、煙草というものは幸福なときではなく、不幸の渦中にいるときに吸うものだとつくづく思う。
ぼくもいつのまにか根本まで灰になっていた煙草を消して、新しいそれを咥える。
人は見かけによらない。
牧田さんの唇からこぼれた何気ない一言が、紫煙とは違い、ぼくの心中にしつこく残っていた。
たしかにその通りだ。
ぼくだって、陽子さんに良い顔をしながらも「死んでしまえ」と願った瞬間があった。
陽子さんも、弱弱しいふりをしながら、自分の話し相手を選別する狡猾さを持っていた。
生者はどうしてこんなに醜いのだろう。
死者はどうしてあれほど清いのだろう。
そんなことを考えているうちに、注文したピザとパスタが来た。
さきほど自分が怒声を出したせいか、ボーイの所作からは多少の警戒心を感じさせる。
まるで当初の陽子さんのようだと考えると、やはり一刻も早く彼女に会いたかった。
フードは全て牧田さんに任せて、ぼくはひたすら不味い煙草で灰皿をいっぱいにする。
牧田さんが、ぼくと陽子さんの関係を知っていたことは問題ない。
それを当人が黙っていたのも、かわいい悪戯のようなものだ。
ぼくが許せないのは、もちろん堤である。
怪しい商法に手を出していること以上に、陽子さんに唾をつけようとしていることが、陥れようとしていることが何より我慢できない。
会計を済ませてから、ぼくたちはラブホテルの看板に見向きもせず駅に向かった。
胸中にあるのは、陽子さんへの不安と、堤への不信だ。
そして肺には、迫りくる冬の冷気が充溢している。……。
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