第18話「カクテル」

 絵はがきの懸念を除けば、近頃はずいぶんとうまくやっていた。

 陽子さんとの関係は良好だし、ぼく自身、親の死を吹っ切るための絵画制作に没頭している。

 人間は何かに集中していたら、その形がどうであれ前向きになれるらしい。


 まずは堤に言われた通り、承認欲求というものを捨て去ることを意識した。

 モチーフは自分の内側から湧き出る感性に任せよう。

 そう思ったのだ。

 

 そもそもぼくが絵を描くのは、父の死に踏ん切りをつけるためだ。

 だから春の風景を描こうと考えた。

 お父さんが見ることのできなかった春を。

 緑が芽吹き、蝶が舞い、やわらかい日射しに輝く雪解けの春を。


 時期が時期なので、戸外制作はできない。

 かといって冬が終わるのを待つ堪え性もない。


 ぼくは空想した。

 病人の浴びたかった陽の光を、嗅ぎたかった新緑の香りを、感じたかったあたたかいそよ風を。


 油絵と違い、水彩画はそこまで時間がかかるわけではない。

 けれど、凝り性のぼくは何度も下絵を描き直しては絵の具を塗り、それを破棄して下絵に戻ることを繰り返した。


 一進一退の中で、着実に自分の思う風景を描けるようになっている自信もあったし、ようやくこれが最後の一枚だと決めて下絵を完成させたのが朝方のことだ。


 寝ぼけまなこでそれを眺めていると、この白い世界が色彩に溢れるのが楽しみで仕方ない。


 絵の構図は春の町並みと自然の中に、二人の男女が立っているというものだった。

 もちろん、それはぼくと陽子さんだ。


 堤には彼女のことは一度忘れた方が良いとアドバイスをもらったけれど、下絵を描き直していくうちに、自然と男が登場し、これまた気付けば女が画に出てきたのだ。


 男女はこちらに背を向けているので、表情までは分からない。

 ただ二人がじっと春の街を眺めており、その頭上には昼間だというのに月がのぼっている。


 父の死を受け入れたぼくの背中と、母の死を受け入れた陽子さんの背中。


 これがぼくの理想だと思った。

 気が早いけれど、題名はもう決まっている。


 月の墓標だ。

 死の象徴であり、お父さんが眠る霊廟れいびょうであり、陽子さんが帰りたいという黄金の大地。


 まず青の絵の具を水で溶かして、限りなく透明に近い色にする。

 春の空を描き始めた。

 ぼくの手によって、春が彩られていく。


 それから数日経った頃には、またスランプに襲われた。

 文学でも芸術でも、創作活動というものに停滞はつきものだろう。


 煙草の吸いすぎで肺が痛み、眩暈めまいがする。

 そんな中で手元に視線を落とすと、パレットの中に泳ぐ赤色から、ふと牧田さんの唇を思い出した。

 ……そういえば、彼女にはお礼を言っていない。


 近いうちに会いたい。お礼がしたいんだ。お酒でもおごるよ。

 ぼくは凝り固まった背中を伸ばしてから、筆とパレットを投げてそのような旨の内容を牧田さんに送った。


 シャワーから戻って、久しぶりの髭剃りに痛む頬を撫でていると返事が来ていた。

 なんでも今日会えるとのことだ。

 ちょうどスマホをいじっていたのか、牧田さんからの返事は、ぼくがラインを送ってすぐのことだった。

 

 この頃、ずいぶん行動的になったと自分でも思う。

 出不精でぶしょうで人間嫌いなぼくが、真冬に肩を出している、男遊びがお盛んな女性と二度も出かけるなんて夢にも思わなかった。


 駅の構内にはお決まりの待ち合わせ場所があって、テレビのモニターとベンチが置いてあるのがそれだった。


 彼女はぼくを見つけるなり、ヒールをカツカツと鳴らして近付いてくる。

 以前も集合時間の前にいたと思うと、牧田さんは律儀な性格らしい。


「久しぶり。元気だった?」


 手を上げながら、彼女は笑う。

 やはり高い靴を履かれては、目線は牧田さんの方が上だ。


「お店は決まってるの?」


「うん。安くてうまい居酒屋があるんだ」


 そう返事をしつつも、財布にいくら入っているか思い出そうと考えを巡らせた。

 そういえばお金を下ろすのを忘れていた。

 近頃はろくに外出をしていないので、財布も開いていなかったのだ。


「あ、金欠?」


 彼女は目ざとく指摘して笑う。

 女性の前で財布の中身を確認するのは、なんだか情けない気分だ。


「いや、大丈夫だった」


「良かった。ねえ、居酒屋よりもバーに行こうよ。たまにはゆっくり飲みたいの。行きたいところあるんだ」


 そう言った彼女に連れられてビルの八階へ上がると、エレベーターが開くのと同時にバーテンダーに一礼されたので驚いた。

 ぼくには不釣り合いじゃないかと躊躇するが、牧田さんは慣れた様子でぼくを先導して窓際のテーブルに座る。


 ぼくは落ち着かず、きょろきょろと店内を見渡しながら、


「こういうところには、よく来るの?」


「ううん、たまにだよ。良いところでしょ。夜景も綺麗だよ」


 一面の窓硝子からは、街の中心街が見下ろせた。

 電波塔のデジタル時計を見ると、午後七時を過ぎている。

 たしかに、綺麗な夜景だった。


 彼女はグラスホッパーを、ぼくは雪国を注文した。


「これって日本酒なのかな?」


「知らないで注文したの? 雪国はカクテルだよ」


「牧田さんが頼んだのは?」


「それもカクテル」


「へえ」


 ぼくはため息をついて、煙草を点けた。

 アルコールに弱く、お酒はほとんど飲まないので、まるで知識がないのだ。


「あのさ、あの後また堤君と会ったの」


 あの後というのは、美術館の帰りのことだろう。


「そうだ。あの時はごめんね。途中で帰って」


「ううん。どうだった? 仲直りはできた?」


「うん、おかげ様でうまくいったよ。それで、堤がどうしたって?」


「彼と二人でここへ来たんだ」


 その時、自分で発した言葉の味を苦そうにする彼女の表情を見た。

 ぼくの前ではあくまでも好青年という印象を与える堤も、女の前ではそうもいかないのは牧田さんの口ぶりから何度も感じたことである。


 そこでカクテルが運ばれてきた。

 グラスホッパーは綺麗な黄緑色をしている。

 悪く言えば絵の具を溶かしたようで、ぼくは少しぎょっとした。


 自分の雪国はというと、透明なウォッカベースのお酒で、グラスの縁には砂糖がまぶしてある。なんともお洒落で、どちらにせよ気が引けてしまう。


 煙草を消して、お互いにグラスを持った。


「乾杯」


 ぼくもずいぶん大人になったもんだとしみじみ思う。

 こんなところで女とカクテルを傾けるなんて。


「雪国は、川端康成の作品が由来なんだよ」


「へえ、たしかにそういう小説があるよね」


「あっ、田辺君、文学少年に見えて本読まないんだ」


 いたずらめいた指摘にぼくも笑う。


「それとね、グラスホッパーはバッタのことなの」


「昆虫の?」


 言われてみれば、似たような色合いをしている。

 でも、バッタを連想して飲むお酒は美味しいのだろうかと疑問に思う。


「うん。それでね、話したいことがあるんだけど……」


 彼女は頬杖をついて、


「この前、話してくれた陽子さんっていう女性。私の後輩なんだ」


「えっ? 後輩ってどこの?」


「喫茶店だよ。パン屋さんでもあるんだけれど。もしかしてもう行った?」


「うん」


 ぼくは頭の中で、三人の顔が重なった。

 喫茶店で見せてくれた陽子さんの笑顔と、死にゆく二人の病人の顔だ。




 

 

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