第17話「月の意味」
それから絵はがきのことが気になりつつも、すっかり引きこもって、煙草と鉛筆を消費する日々を一週間は送った。
ひげは伸ばしたままで、ろくにお風呂にも入らなかった。
ストーブを点けると頭がのぼせるので、冷え冷えとした手をこすりながら筆を握った。
二日に一度は窓を開け放して、清浄な空気を取り込んだ。
時計を見上げると、朝の五時である。
うんとからだを伸ばした。
模写はこれくらいにして、これからは戸外作業に入ろうか。
それとも気に入った光景を写真に撮って、それを描こうか。
あるいは、頭に浮かんできた空想を描いてもいい。
まるで大筋が定まっていないので、模写はできても本格的な作業に取りかかれないのが実情だった。
ぼくはシャワーを浴びてから、公園に行った。
陽子さんの姿はない。
もともと、彼女に会うためではなかった。
彼女が好きだと言った月を、彼女が望遠鏡で見たいと言った月を、なんとなしに見上げたいと思ったからだ。
ベンチに積もった雪を払い除けて、そこに腰を下ろす。
薄くなったデニムから冷たさが伝わってきて、全身に鳥肌が立った。
近頃はすっかり雪が積もった。
十二月の半ば。冬の真っただ中である。
雲一つ無い夜空に、いつものように月が浮かんでいる。
ぼうっと見つめていると、黒い画用紙の一部を丸く切り抜いたかのように思えた。
切り絵の中に住んでいる小人は、きっとこういう風に見えているのだろうか。
月に行きたい。
彼女はそう口にした。
あの桃色の唇から、婉曲的ではあるにせよ死の願望が漏れ出したのだ。
このまま事が進めば、母親を亡くした陽子さんは自殺をするだろう。
もしかすると、本当に彼女はかぐや姫なのかもしれない。
月の都の住人である陽子さんは、本来この世界に住むべき存在ではない。
だから迎えが来るのだ。
そうして一度でも天の羽衣を纏ってしまえば、この世に対する情愛は消え失せてしまう。
何もかも忘れて、褪めた表情で月へ帰ってゆくのだ。
ふと、月はつまり死後の世界ではないか。
天の羽衣は死そのものではないか。
そんな突飛な考えが浮かぶ。
それを羽織った者が思い悩むことを忘れ、さっぱりと現世に未練を残さない姿は、まさに死人ではないだろうか。
それに遺された翁や帝の抱く愛別の哀しみは、愛する者を喪った遺族と重なる。
翁が光る竹からかぐや姫を見付けた時、彼女は三寸、つまり約三センチだったという描写があるけれど、ヒトの胎児がこれと同じくらいの大きさにまで成長するのは妊娠十五週前後であり、この時期に胎盤が完成する。
それは流産の危険性が減って、この世に産まれる可能性が高まるということだ。
竹取物語はつまり、ある美しい女性の死を描いた悲劇なのではないか?
ぼくにとっても、月はただの衛星ではなかった。
それはまさに、死を象徴する黄金の大地だ。
その日、大学の喫煙所で堤に声をかけられた。
「よう。ちょっと痩せたか」
後ろ手に硝子扉を閉める彼に向かって、
「あんまり食べてなくてさ」
「風邪?」
「いいや。今、絵を描いてるんだ。それに夢中になって一日一食生活だよ」
「そうか」
堤はジッポで火を点ける。
オイルの香りがかすかに漂わせながら、
「あの子とはどうなった?」
「お見舞いに行ったり、プラネタリウムに行ったよ」
すると彼は勢いよく煙を吐いて、
「プラネタリウムはともかく、お見舞いって?」
「彼女のお母さんが入院してるんだ。それで、付き添ってほしいと頼まれてさ」
「ふうん、怪我ではなさそうだね」
神妙な顔をした彼は、以前のぼくの口ぶりから察したのだろう。
「うん。もう余命が近いらしいんだ」
彼は何を言うでもなく、しばらく沈黙が続いた。
「さっき話した絵のことなんだけどさ。どうも方向性が定まらなくて、描きたいっていう欲求が空回りするんだよね」
「その人に見せるの?」
ぼくは驚いて、
「そうだけど、どうして分かったんだ」
「誰かに見せるって意識した途端、進まなくなるものだよ。それで、その絵は誰のために書くの?」
「描くのは自分のためだよ。でも完成したら見せてほしいって言われて、それを意識しているのも事実だよ」
「その人は、ありのままの絵を見たいんだよ。見栄で描いたものなんて見たくないはずだから、認められたいっていう欲求も、上手く思われたいっていう期待も全部引っくるめて描けばいいさ」
「ありがとう。あとさ……」
ぼくは、絵はがきのことを話そうか迷った。
あれは彼女の母親の悲痛な叫びだから、第三者の堤に言い漏らすのは失礼かと思うのだ。
でも、自分の行動の是非を誰かに判断してほしい気持ちもあった。
言い淀んでいるぼくを、堤は急かさない。
これは以前、図書室で会った時と同じ構図だ。
前回は「絵画から色が抜ける」という非現実的な与太話だったけど、今回は故意に犯した罪である。
彼の反応も変わってくるに違いない。
そんな逡巡を前にして、堤は「決心がつくまで待っているぞ」というように新しい煙草をくわえる。
ぼくは彼のこういうところが好きだ。
他人に何かを要求しない度量の大きさに、口下手な自分はこれまで何度も助けられてきた。
ぼくも次の一本をくわえると、フィルターが唇の薄皮に張り付いて痛んだ。
口元を舐めてから、もう一度くわえて火を点ける。
煙を吐き出してから、
「さっき話したけれど、彼女の母親に会いに行ったんだ。病室にはぼくが彼女にプレゼントした絵はがきがあってさ。裏に、殺してほしいって書いてあったんだ」
堤の表情は変わらない。
「それで気が動転して、彼女のいない隙にそれを消しゴムで消したんだ。幸い、彼女はその言葉に気付いていない様子なんだけど。俺は間違っているかな?」
彼は間髪入れずに、
「人に宛てた手紙を食ったヤギみたいなものだよ。そのヤギのせいで、母親の気持ちが、娘に届かなかったのは事実だ。でもヤギだって悪意があってやったわけじゃない。母親を傷付けたくなくて、悲しい手紙を食べたんだからな」
堤が理解を示してくれたことに、少しだけ安堵する。
「うん、そうなんだ。堤なら、どうする?」
「俺なら、まず気付いても文字は消さないよ。それを自分で伝えたりもしない。だって、それは親子間のコミュニケーションなんだからね。そこに自分がズカズカと踏み入って、阻害するような真似はしない」
ズカズカ、踏み入る、阻害。
これらの言葉は、彼がぼくを非難している証拠に他ならないと思った。
煙草を持つ手が汗ばんでくる。
「だから。そのヤギにできることは童謡と同じで、もう一度母親が娘に手紙を送ることを待つしかないよ。田辺はその時、精神的に落ち込む彼女を支えたらいいさ」
「そうか」
堤はぼくの突発的な行いを咎めたくれた上に、贖罪の仕方まで教えてくれた。
喫煙所の窓から見える国道の街路樹には電飾が巻き付けられて、イルミネーションが煌めいている。
その由来は、森の星空に感動を受けた昔の人が木々に蝋燭をつけたのがはじまりだと言うけれど、街に照るネオンやイルミネーションは、それ自体が星の光をかき消すのである。
矛盾、不条理。
人間の象徴だった。
「サルトルの話があったろう。あれから色々と考えたんだ」
僕が言うと、堤は面白そうに目を丸くして、
「どうだった?」
「俺は、月と死を同一視していたらしいんだ。それで、月が怖く感じていたんだよ」
「その怖いっていうのは物だから? それとも死を連想させるから?」
「両方だと思う。二重の意味で恐れていたんだ。でも……」
「うん」
「彼女は月が好きらしいよ。まるでかぐや姫みたいにさ」
「別にかぐや姫は月が好きなわけではないだろう。じゃあ陽子さんっていう人は、死にたがっているのか」
「おれにはそう聞こえたよ。遠回しな表現だけれどね」
「田辺の場合、父親を月へ埋葬したのも原因かもしれないね」
そう言って彼は三本目の煙草に火を点けた。
ぼくたちはしばらく、黙って煙を吹かしていた。
その頭上には、月が知らんぷりをしている。
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