第16話「宇宙葬と歯車」

 科学館にはちょっとした休憩室があり、飲食や雑談ができた。


 彼女の顔は少し火照っていて、まだ興奮が冷め切っていないようだ。


「プラネタリウムなんて、はじめて見ました」


 星々の余韻が、声音にも出ている。

 喜んでもらえたと安心した。


「大人でも、意外と楽しめるものだね」


「はい。田辺さんは星が好きなんですか?」


「うん、天体望遠鏡で月を見たり、土星を見たりするんだ。ちょうど今みたいな冬の季節はさ、空気が澄んでいるから綺麗に見えるんだよ」


「月はどういう風に見えるんですか?」


 天体に関心があるのか、陽子さんは珍しく質問を繰り返す。


「倍率を上げたら、クレーターの凹凸もはっきり見えるよ。図鑑に載っているような感じかな」


 へえ、と彼女はため息を漏らした。


「今度、見せてください」


「えっ?」


「あっ、いえ……」


 ぼくの驚きに、彼女は恥をかいたように手を振って撤回しようとした。


「いや、いいよ。ごめん、そんな風に言ってくれるとは思わなかったからさ。びっくりしちゃったんだ」


 ぼくが言うと、陽子さんは胸を撫で下ろすように頬を緩ませた。

 それでもまだ気恥ずかしいのか、彼女は飲み物をしきりに飲む。


「月も、出ていましたね」


「うん」


「不愉快じゃなかったら、もう一度聞かせてほしいです。月の話」


 ぼくたちが喧嘩した、あの公園が蘇る。


「ロケットに遺骨を載せるんだ。そうやって月へ送ったり、宇宙の遠い遠いところを永遠に回り続けたりさ。宇宙葬って言うんだよ。意外と二十年前もから実施されているんだ」


 宇宙飛行士を目指した挙句、どうしてか製紙工場の機械工になった父さんには、うってつけの散骨だと思う。


「あの、どうやったらロケットに載せてもらえるんですか?」


「まずは宇宙葬をやっている葬儀会社に連絡を取って……」


「それから?」


 彼女は喰い気味に質問を重ねる。

 ぼくは降参したように、


「ぼくも詳しいことは分からないんだ。親が生前に準備していたから」


「そうなんですね」


 彼女は落胆したように肩を落として、


「私も月に行きたいです。全部捨てて……」


 彼女は、あの朝と同じことを言った。

 まだ夕方だというのに、それに屋内だというのに、陽子さんの顔には月明りが射す。


「全部?」


「はい」


「全部って、パン屋さんのアルバイトも?」


「はい」


「これからの人生も?」


「はい」


「お母さんも?」


 答えがなかった。


「ごめん」


 ぼくが謝ると、彼女は頭をぶんぶんと振った。

 黒髪の毛先が、ゆるやかに揺れる。


 どうしてこう、残酷なことを言ってしまうのか。

 ぼくは自分を責めた。


 それと同時にこうも思う。

 プラネタリウムを見上げていた時、彼女は宇宙の中にたった一人だけの世界を空想したのかもしれない、と……。


 誰もいない、生も死も存在しない、一人だけの永遠の星空を。


 星々のもとで、ぼくはずっと陽子さんを見つめていたけれど、彼女もまた、ずっと星空を見上げていた。

 一度だって目が合わなかった。


 彼女はぼくをどう思っているのだろう。

 胸が疼く。


 気を取り直そうと、


「陽子さんは何か将来の夢とかあるの?」


「パンを作りたいと思ってるんです」


「ああ、だからあそこで修行しているんだね」


 修行という場違いな言葉に、彼女は少しだけ笑ってくれた。


「はい。いつになるか分からないけれど、お金を貯めているんですよ」


 そう言えば、ぼくも大学へ進学できたのは父の生命保険のおかげだったことを思い出す。

 言い方は悪いけれど、父が亡くなったおかげで進学ができたようなものだ。

 そう考えれば、不謹慎だけれど彼女も同様の方法で学費の工面ができるはずだ。


「でも、パンを作るのって大変でしょ?」


「そうなんです。火傷をしたり、小麦粉の袋が重たかったり」


 彼女はブラウスの袖をまくって、白い肌に刻まれた火傷の痕をぼくに見せた。

 数本の茶色い横線が、肌に着色している。

 それは陽子さんの努力の証だった。


 ぼくにはパンを作る工程が具体的には想像できないけれど、彼女は彼女なりに頑張っているのだろう。


「今日はお母さんのお見舞いに来てくれてありがとうございます。それにプラネタリウムも連れて来てもらって……」


「うん。それに今度は、月を見に行こうね」


 陽子さんが頷く。

 多少なりとも、当初の警戒心は薄れているように思えるのはぼくだけだろうか。

 ただの願望と言われてもしかたない。


「お母さんもきっと喜んでくれたと思います。だからこそ、最期には幸福な人生だと思ってくれたら良いんですけれど……」


「なら陽子さんは、お母さんの前では笑っていてほしい。きっとそれがお母さんを幸せにするよ。泣きたい時は、ぼくのところに来てほしい」


 愛の告白にも似た想いだったが、不思議と気恥ずかしさはなかった。


 彼女こそ照れるように顔を綻ばせながら、


「分かりました。私はお母さんの前で悲しい顔はしません。辛くなったら、田辺さんに会いにいきます」


 宣言をするように彼女は言った。

 信頼してくれることが、嬉しかった。


「絵を描こうと思うんだ。何か吹っ切れるきっかけが欲しくて」


「絵ですか? よかったら見せてくださいね」


「うん、きっと見せるよ。いつ完成するか分からないけれどね」


「ずっと待ってます」


「そうだ。その時は陽子さんの作ったパンを食べたいな」


「はい」


  彼女は笑みを抑えるように、唇を結んだ。

 それでも頬は上がっている。


 出会った頃に比べて、陽子さんはずいぶんと自然な笑顔を見せてくれるようになったと思う。

 ぼくが前向きになったおかげか、ようやく歯車が回り始めた実感があった。



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