第15話「プラネタリウム」


 どきりと、ぼくは肩を上げる。

 見られたのだ。

 物だった病人は、目を開けた途端に人となる。

 そうしてぼくは、彼女の瞳を通して自分を見た。


「はっ、はじめまして……」


 驚きと恐怖でようやくひねり出した情けない声で挨拶をすると、


「あっ、お母さん。起きたの?」


 陽子さんが振り返った。

 ベッドを隔ててぼくたちは対面する形になる。


「具合はどう?」


 母親は陽子さんに頷いてから、ぼくへ視線をやった。

 その目は、まだかろうじて意思を汲み取れるものだ。


「彼は田辺さん。絵はがきを買ってくれた人だよ」


「そうかい、ありがとうね」


 病人の声は弱々しく、やっと搾り出したようだった。

 やはりタクシーの中で聞いた話とは、ずいぶんと様子が違う。


 この一日で体調が悪化したのかもしれない。

 癌の進行なんて気まぐれだ。

 落ち着いたかと思えば、濁流のように症状が押し寄せることもある。


 この人は、明らかに苦痛を表に出さないよう、常にからだが強ばっていた。

 当然だ。

 殺してほしい。

 そんな願いを娘に頼むくらいなのだから……。


 その言葉が陽子さんを傷付けることを、母親が気付かないはずがない。

 その上で、娘を苦しませた上で、それでも自分の命を棄てたいと思うほど、病気の苦痛は甚だしく希望がないのだろう。

 

 消して良かった思う。


 ぼくたちは病室を出て、


「今日は具合の悪い日だったみたいです。満足にお話ができずにごめんなさい」


「謝ることじゃないよ。そういうこともあるさ」


「絵はがきは、母の宝物です」


 笑わせないでくれ。

 あれは呪詛じゅそだ。

 娘を生涯かけて蝕む呪いの言葉だ。

 

 陽子さんが絵はがきの裏に気付いていないことは、明白だった。


「ねえ、この前話していたプラネタリウムへいかない?」


 ぼくは絵はがきの件があったので、一刻も早く彼女の傍から離れたかったのに、ついそんなことが口に出る。


 陽子さんも何か話し足りないようで、二つ返事で引き受けた。



 ……プラネタリウムの場内に入ると、観客の大半は小学生で、随分と賑わっていた。

 ちょうど小学校の課外授業と日程が重なってしまったらしい。


 席が倒れないやら、暗くて怖いだの、声変わりのしていない喚声が響いて、場違いなのはぼくたちの方だ。

 まるで小学生の遠足に迷い込んでしまったようで、男女のデートなんてどうやっても言えない雰囲気にぼくは苦笑する。


 どこまでいっても恋人のような環境に身を置けないのは、ぼくたちのアンバランスな関係性をそのまま象徴しているようだ。


 慌てて二人並んで座ることのできる座席を確保して、腰を落ち着かせた。

 これで離ればなれになってしまえば、本末転倒もいいところだ。


 座席は深く、映画館のようにゆったりと背中を預けることができる。


「楽しみだね」


 小声で言うと、


「はい」


 彼女が静かに返事を返してくれた。

 やがて、半球のドームが暗くなる。上映が始まるらしい。

 子どもたちの声も、すうっと消えていく。


 まばたきをした隙に、頭上に星空が浮かび上がった。

 観客はみな言葉を呑んで、ただ星明かりに照らされるばかりだ。


 解説役の女性が、子守歌を歌うように天馬座や冬の大三角について説明を始める。

 オリオン座のベテルギウス、おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオン。


 屋内に浮かび上がる虚構の星空は、解説役の女性の操作で、めまぐるしく変化した。

 月が廻り、季節が移ろう。

 もしぼくたちが、これほどの時間の中で生を営んでいたら、一生なんてあっという間だろう。


 膝を抱えていれば傷は癒えるだろうけれど、ひょっとすると傷付いたことさえ気付かないかもしれない。

 瞳に星の軌跡が三万回泳いだら、それでおしまいだ。


 気が付いたら、上空に星々が線で繋がって星座ができあがっていた。

 うしかい座は逞しい体格をした男性が右手に棍棒を握りしめ、左手で二匹の猟犬を連れている。


 ふと、横に座っている彼女を窺う。

 彼女は視線を外すことなく、熱心に空を見上げていた。


 陽子さんの瞳に光が映り込んで、遠い宇宙に浮かぶ星のような美しさを湛えている。

 その美しさは、逆説的な幸福だった。

 だって彼女の瞳に浮かぶ星々は、そう遠くない将来、肉親の死に顔に取って変わるのだから。


 あの土気色の萎んだ肌、青白い唇、二度と開くことのない重たい瞼に……。


 それからというものの、ぼくは彼女に見惚れてしまい、ちっとも天体を見上げなかった。

 女性の解説も意識から外れて、無いも同然である。


 ぼくは星よりも透明で悲しい横顔を、いつまでも眺めていたかった。


 そうだ。

 ぼくはようやく、彼女に恋をしているのだと理解した。


 あるいは、似たような境遇に憐憫の感情があるのかもしれない。

 傍目から見れば、単なる傷の舐め合いにも映るだろう。


 それでもぼくは、ぼくの隣にいてくれる彼女の存在が、狂おしいほど切なく感じられた。

 だからこそ、傷付くかもしれないと分かっていても、彼女に会いたいのだ。


 ……夢から覚めるように、プラネタリウムの上映が終わった。

 陽子さんはその間、片時もぼくの方を見なかった。

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