第14話「お見舞い」

 陽子さんからラインが来たのは、それから三日経った日の昼下がりだ。


 その間、ぼくは公園に行かなかったし、喫茶店にも出向いていない。

 それなのに家でも大学でも、気が付けばスマホを見下ろして、メッセージを書き込んでは送らずに消すのを繰り返していた。


 会いたいけれど理由が見付からなかったのと、傷付け合うことを恐れたのだ。

 だから彼女の方から連絡が来たことに、ぼくは大層驚いた。

 メッセージを見ると、『今日、前に話した母のお見舞いに付き合って頂けませんか』というものだった。


 三度会って三度傷付いているぼくたちだけれど、少し前途が明るくなった今の自分なら彼女を少しは癒やせるかもしれない。

 そう考えて、すぐに承諾の返事を送る。

 

 ぼくたちは駅前で待ち合わせをして、そこからタクシーを使った。


「久しぶりだね」


 煙草臭い車の中でぼくが言うと、


「はい。今日は急ですみません。母が、田辺さんに会たいと言ってきかないんです。私も田辺さんがいてくれた方が心強いと思って」


 彼女は説明している最中、細かく頭を下げた。


「いや、いいんだよ」


 案の定、彼女の湛える雰囲気はまるで高校生の頃の自分だった。

 とはいえ、ぼくのように故意に作っているわけではないのだろう。


 自覚がない分、より根が深いのかもしれない。

 なんせ彼女はまだ受け入れるべき親の死を経験すらしていないのだから、まずは死に立ち会うところからだった。


 長い道のりだと思う。

 ぼくは四年目にようやく気が付いて、精算をしようとしている。

 彼女は、ぼくが辿った喪失の苦しみを歩きはじめている最中なのだ。


「お母さんの容態ようだいはどうなの?」


「それほど悪化はしていません。会話もできますし、ご飯も少量なら食べられるんです。でもほとんど寝たきりの状態で、時折苦しそうにしています」


 まだ人間らしさの残っている状態だ。

 そこからが、病人も、周囲の人間も苦しいのだろう。

 日に日に尊厳が欠落していく光景、日に日に死が、からだじゅうを覆い被さって絶望に染めていく光景。


 ぼくが生前の父さんと最後に会ったのは、モルヒネを投薬する日だった。

 そこからはもう意識も曖昧になるので、最後に会いたいと言ってきたのは父の方だ。


 ぼくたち父子おやこは、見舞いに行かず、見舞いを要求せず、お互いに顔を合わせていなかった時期がある。

 それは息子が衰える父の姿を見たくないという意味であり、父からしても弱々しい姿を見せたくないという意味であった。


 だから、モルヒネを投薬する直前にぼくを呼んで、泣いて謝ったのだ。

 それから臨終の日まで、やはりぼくは父さんのお見舞いには行かなかった。


 毎日通っていた母さんも、ぼくを責めることはしなかった。

 ぼくは父が苦しんでいる間、ずっと逃げ続けていたのだ。


「陽子さんは強いね」


 本心だった。

 けれど言葉にするつもりがなかったので、お互いに目を丸くして見つめ合う。


「ごめん、ぽろっと出たんだ」


 以前も公園で発した言葉だけれど、自分としてはまるで意味合いが違う。

 彼女にもそれが伝わったのか、陽子さんは頬を上げた。


「ありがとう。でも私、弱いです。弱いので、田辺さんに頼ってしまうんです」


「それでいいんだよ。どうせ暇な大学生だ。いつでも駆けつける」


 彼女は目を伏せて、静かに微笑んだ。


 病室へ入ると、陽子さんの母親はベッドに横たわっていた。

 一人部屋で、少し広すぎるくらいに感じる。


 どこの病室も同じような作りだと見回していると、見覚えのあるモネの絵はがきが、サイドテーブルに乗っているのを見付けた。


「お母さん、お昼寝しているみたいです」


「うん、起こすのも悪いね」


 ぼくたちは秘め事を共有するように、小声で話した。


 病人の寝顔は、頬がこけているわけでもなく、髪が抜け落ちているわけでもない。

 一見したところ、健康なようだ。

 ただ、時折苦しそうに眉をしかめるのは、癌の痛みにもだいているのだろう。


 彼女はぼくにパイプ椅子に座るよう促してから、自分も腰を下ろした。


「余命は本人にも伝えてあります。母は、それを受け入れてくれました」


 陽子さんの笑顔が眩しかった。

 まるで子どもが褒められたことを自慢するような純粋無垢な誇らしさが、彼女の表情には浮き出ている。


「それは立派だよ。ぼくの父さんなんて、余命は告げなかったけれど自分でも察したのか、ずいぶん荒れてさ。母さんに色々と無理難題を押し付けて困らせていたらしい」


 そう言ってぼくたちは静かに笑い合った。

 月明かりの下でできなかったことが、どうしてあと幾ばくの命もない病人を前にしてできるのか。


 不思議だった。


「お母さんは強い人なんです」


 そう言って、陽子さんは力こぶを作る真似をした。

 母親のそばにいることで、ぼくに対する緊張感もほぐれているのだろう。

 本来の彼女は明るい性格なのだ。


「私、お手洗い行ってきますね」


 彼女は母親を起こさないよう、音を立てずに扉を閉めていった。


 手持ちぶさたになったぼくは、けれどあんまり病人の顔を覗き込むのも失礼に感じて、モネの絵はがきを手に取った。

 端の方がめくれていたり、折り皺が付いている。

 陽子さんの言う通り、彼女の母親は何度もこれを眺めたのだろう。


 ぼくは、何の考えもなしにひっくり返した。

 はがきの余白に書かれている言葉を見て、息が止まる。


 殺してほしい


 そう書いてあったのだ。

 全身の血がさっと引いていくのが分かった。

 見てはいけないものを見てしまったのだ。


 何が『お母さんは強い人です』だ。

 病人はすでに命を絶ちたいと考えるほど病状が悪化しているじゃないか。

 娘にも取られないよう、必死に苦痛を堪えているのだ。


 それでもとうとう耐え切れないところまできて、この言葉を娘に託したのだろう。

 恐らく、陽子さんはまだ気付いていない。

 ぼくは焦った。


 この言葉は、必ず陽子さんを呪うから。

 ぼくが受けた父さんの謝罪と同じように。

 悪意がなくたって、言葉というものは時折思いがけない傷を与えるのだ。


 捨てるわけにはいかない。

 しかし、このままにしておくわけにもいかない。

 

 これを見て動揺した陽子さんが、どういう行動に出るのかは分からないけれど、どれにしたって凄惨な結末が待っている気がした。

 言われた通りに殺人を犯すかもしれないし、苦悩に苦悩を重ね、自殺に走るかもしれない。


 ぼくは焦燥感に駆られて、たまらず病室を飛び出した。

 まっすぐナースセンターへ行き、消しゴムを貸してもらう。


 赤の他人がこんなことをして許されるのか。

 母親の言葉を無碍むげにしていいのか。


 そんな疑念に苛まれながらも、ぼくは何かに取り憑かれたように執拗に文章を消した。

 消しカスを払い落とし、絵はがきを見上げると、はじめから何も書かれていないように見えた。


 一時の安堵を覚えるも、心臓はうるさいくらいに鼓動している。


 病室へ戻ると、彼女がいた。


「田辺さんも、お手洗いに行っていたんですか」


「うん」


 ぼくはまだ心臓が早鐘を打っている。

 なにせ、よれよれのパーカーのポケットには、まだ絵はがきが入っているのだから。


 彼女が絵はがきの不在に気付いた瞬間、何もかもが終わる。

 言い訳なんてできる状況ではない。


 そうこうしているうちに、幸運にも彼女は窓辺に立って冬景色を眺め始めた。

 燦々さんさんと照らし来る陽の光を浴びて、その後ろ姿の輪郭がやわらかく滲んでいる。


 どうして光を浴びると、存在というものはこうも曖昧で不確かになるのだろう。

 そんなことを考えつつ、ぼくはこの機会を逃さないよう音を立てずに絵はがきをテーブルに置いた。


 きちんと睡蓮の絵が印刷されている方を上にして。


 その時、病人と目が合った。

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