第13話「命日2」

  シートベルトをしながら、ぼくは運転席でエンジンをかけるお母さんに言う。


「ねえ、お母さんって、いつお父さんの死を受け入れた?」


 時期が時期なので、思いがけない質問に彼女は驚いた様子も見せなかった。


「ううん、そうだねえ。亡くなってからの一年間は、色々な手続きでバタバタしていたからね。名義を変更したり、役所に行ったり、銀行に行ったり」


 当時のことを頭に思い描いているのか、しんみりと目を細めているのがバックミラー越しにわかる。


 歩行者を渡らせて右折をしたあと、


「だから、そういうものが全部終わって一息ついた時に、ああ、いなくなったんだなって実感が湧いたかなあ」


 当時の母さんが奔走していたなんて、ぼくは知らなかった。

 母の苦労に見向きもせず、高校二年生だったぼくは、ひたすら悲しみにくれていたのだ。


 ハアとため息を吐けば、友人たちが慰めてくれる。

 悲劇の主人公気取りだ。


 親を亡くすだなんていう出来事は、普通の高校生が経験するものではない。

 教師たちも、仲の良かった友人たちも、ぼくを丁重に扱い、言葉を選び、顔色を窺っていた。


 ぼくはそんな立場に酔いしれていた。

 ため息が合図となって、悲劇の幕が開ける。

 ステージにはスポットライトに照らされる自分と、それを取り囲む友人と教師たち。


 ぼくはただ、視線を落とし、瞳を潤わせ、唇を結び、憂鬱な横顔と痛々しい作り笑いを浮かべていれば、それでよかった。

 それだけで周囲の愛情に安らぐことができたし、慰め役の彼らも優越感を抱いたに違いない。


 不幸や悲劇や滑稽は、あたたかい優劣関係を築き、双方に利益を与えるのだ。

 自分の心境が台本で、登場人物は自分と、それを慰める人間たちだけ。

 気をつかう役者はステージの上で、この哀れな主人公をあの手この手で慰める、馬鹿馬鹿しい芝居だ。


 そんな自己中心的な悲劇を、たっぷり一ヶ月は堪能した。

 それにも飽きて幕を下ろしたのも自分だ。


 喪失における甘い憂鬱は、冬休みの訪れと共に終わったのだ。

 遺された家族だって悲劇の配役が与えられ、それを演じることができるわけだし、学校へ行かなければ友人とも会わないためである。


 その不道徳な演劇がすぐに終焉を迎えるのを、ぼくは承知していた。

 それに、いつまでも続けていれば見放されることも分かっていたので、まったく良い幕引きだった。

 自分は充分、舞台における喝采かっさいを浴びたのだから。


 ぼくはどこまでいっても、自分のことしか考えていない自己中心的なやつだと今になって思い知る。

 母親が役所だ銀行だと奔走している中、ぼくはただ悲劇の役者を演じていただけなのだから。


 現実に対する厭世観えんせいかんは、恐らくこの時期に患ったものだろう。

 それはあの夢で再現されていた通り、死別の直前から発症していたのだ。

 肉親の衰弱から目を背けることが日常的になるあまり、自分の生命における責任を放棄したのである。


 もしかすると、今でもこの悲劇を他人に強要しているのかもしれない。

 そう思うとぞっとした。


 だめだ。

 親切心に甘えて、周囲の人間をステージに引き上げては、いつまで経っても父の死を受容することなんてできやしないのだから。


 その劇場は特殊な作りで、幕が二枚あった。

 高校生の頃に下ろしたのは奥の一枚だけで、もう一枚は上がったままである。


 下ろされた幕が一枚だけでは、スポットライトの光が強すぎて、ぼくのシルエットが浮かんできてしまうのだ。

 隙あらば他人の温情につかろうとする底意地の悪さを隠し切れない。


 二枚目の幕を下げよう。

 今度こそ、この幼稚で下らない悲劇を終わらせよう。


「俺も何かしてみるよ」


 ずいぶんと時間が経った頃に言ったので、母さんは「えっ?」と聞き返した。


「受け容れることができるように、何かやってみようと思う」


「うん。良いことだね」


 横風を受ければひっくり返ってしまいそうな軽自動車は、冬の寒空を軽快に走り続けた。

 これからますます白く染まっていくだろう雪景色を眺める。

 線香の煙と鈴の音が、月まで届いてくれないかな、なんて子どもじみたことを考えながら。



 家に着いて一服したあと、ぼくが思い立ったのは絵を描くことだった。

 悲しみや苦しみ、容姿や性格上の劣等感、陽子さんへの愛情と敬遠の形容しがたい気持ち、父さんとの思い出、そういうものを全て曝け出して、一枚の絵を描こうと思ったのだ。


 何も怖がらなくていい。

 ぼくは自分に言い聞かせる。


 油絵は絵の具に含まれている乾性油類の処理が面倒なので、小学生ぶりに水彩画を描こうと考え、その日のうちに画材屋へ行った。

 普通の紙とは違い、水分が滲まないよう加工されている水彩紙。そして筆を三本、それらを洗うプラスチックの容器、そしてパレットも購入した。


 外へ出ると、冬晴れの太陽が、心なしかぼくを歓迎してくれるようだった。

 心の劇場で射出されたスポットライトにはない、澄んだ光を降り注いでいる。


 画材屋の軒先で深呼吸して、冬の冷たい空気をめいっぱい肺に取り込んだ。

 一世一代の、大勝負にぼくは張り切って絵に取り組み始めた。


 とはいえ、十年は筆を握っていない。

 まずは勘を取り戻そうと、林檎やスマートフォン、灰皿といった手元にある簡単な静物をモチーフに、模写を繰り返した。


 鉛筆を持つ筆圧によって、線が太くも細くもなる。

 丸々とした林檎は陰影を上手く付ければ、それなりに立体的な絵ができあがったが、スマートフォンは微少な突起物や溝が多くて苦労した。


 あえて定規は使わずにフリーハンドにこだわったのは、本命の絵を描く際には風景画になると思ったからだ。

 自然の草木や雲を、定規で描くなんて許せなかった。


 さらに難儀したのは、スマートフォンの液晶画面だ。

 電源を点けなければ、暗い長方形に明かりや周囲の光景が映り込む。

 これを鉛筆の濃淡で再現するのが難しいのだ。最終的には絵の具を使うのだけれど、これくらい鉛筆で描けなくては、父の死を受容する絵を完成させるなんて夢の話だと思い、試行錯誤を繰り返す。


 夢。

 そう言えば、立て続けに見た二つの夢を思い出す。


 一つ目は、現実をそのまま俯瞰している内容だった。

 実際にぼくが体験したものと一切変わりがない。


 二つ目は、自分が夢の中の住人だと気付くことができたので、現実にはしていない行動を起こした。

 強引に父を揺さぶると、父さんは目だけではなく口も開いたのだ。

 これも実際に起きた出来事だけれど、経緯が違う。


 ともかく、父は最期に何を伝えたかったのか。

 謝罪の上塗り? それともほかの言葉を……?

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