第11話「喫茶店2」

 公園の件があったのにもかかわらず、ぼくは彼女のことが嫌いになれなかったし、忘れることもできなかった。


 会いたいけれど、会いたくない。

 そんな矛盾した気持ちが、渦巻いてぼくを苦しめる。


 だって、彼女は無意識かもしれないけれど、ぼくの深いところにある何かを、指先でくすぐるのだ。

 その行為には好意も悪意もないのだろうが、愛撫にも似たそれは思いがけない痛みを伴う一方で、同時にぼくに甘美を与える。


 そうして彼女の存在が、死んでしまった父さんの姿を連想させ、ついに夢となって現前したのである。

 思えばそうだ。

 彼女の雰囲気は、病に臥した父さんと通ずるものがあった。


 だからこそ、あの人に目を奪われたのかもしれないけれど……。

 彼女に惹かれる反面、悲しみの色にてられて、死の幻影を見るのが恐ろしい。


 丸い瞳、透明な声、そして悲哀の横顔。

 『一目惚れという言葉では済まされない複雑な感情』の中には、たしかに忌避きひの気持ちがある。


 水分をたっぷりと含んだ色素の薄い絵の具のように、雪景色へ溶けてほしいと彼女に願ったのも、その存在が自分の価値観を根底から覆す危惧があったからだ。


 自分は父さんの死を毛嫌いするあまり、それを連想させる無関係の人間の死を希うのである。

 あまりに身勝手で傲慢な、けれど純真な感情だった。

 脳裏に蘇る母さんの嗚咽と、父さんの骨張った手の甲にぼくがつけた爪の痕。


 ぼくは陽子さんに、死んでほしいと思っている?


 そんなことを考えながら彼女を見つめていると、時折、目が合うこともあった。

 そういう時に見せる、照れるように俯いてしまう幼い仕草にくすぐったさを感じる。

 パンとコーヒーの香りに包まれているせいか、陽子さんの病的な雰囲気はいくぶん和らいでいた。


 彼女が紅茶を運んでくれた時、


「そういえば、陽子さんは大学生なの?」


「いえ、違いますよ。フリーターです。田辺さんは?」


「大学三年生だよ。講義も少なくて暇なんだ」


 それから周囲を見回して、ほかにお客さんがいないことを確認してから、


「今日は私がご馳走するので、気にせずに注文してくださいね」


「うん、ありがとう」


 そう言って、ぼくはハニートーストにかぶりつく。

 ナイフで切れ込みが入っているので、しっとりと蜂蜜の甘さが染み込んでいて美味しかった。


「それで、その、ご一緒してもいいですか?」


「ああ、うん」


 ぼくは思わず間抜けな声を出してしまう。


 彼女はちょうど退勤の時間らしい。

 ぼくはてっきり、勤務している彼女の姿をちらりと見る程度の気持ちだったので、まさか同じテーブルで食事ができるとは思っていなかったのだ。

 途端に緊張して、手汗が滲んでくる。


 奥へ下がってエプロンを外してから、陽子さんは席についた。

 紺のセーターは暖かそうで、彼女の白い肌によく映えている。

 髪型も先日とは違い、働きやすいように後ろ髪を結んでいた。


 陽子さんの新しい一面を見ることができて、ぼくは胸が高鳴っていた。


「来てくれて嬉しいです。ありがとうございます」


「いや、いいんだ。返事が遅れたし……。それと、この前はごめん。言い過ぎたよ」


 彼女は首を振る。


「私もムキになりました」


「お母さんの具合はどう?」


「もう、間もなくです。それで、一つお願いがあって、それで今日来てほしかったんです」


 押し黙ってから、


「お母さんのお見舞いに付き合ってほしいんです。絵はがきを買ってくれた田辺さんにお礼を言いたいそうで……。どうでしょうか?」


 即答はできなかった。


 ぼくが座っているのは窓際の席で、出窓にはサンタクロースやトナカイの陶器が置かれている。一足早い、クリスマス気分だ。


 陽子さんから暗い感情が伝染してしまうなら、当の病人はどれだけの色濃い陰鬱を抱えているのか、想像するだに恐ろしいのだ。

 あるいは、陽子さん本人も本来はそういう雰囲気を纏ってはいなかったはずだ。

 つまり病人から陽子さんへ、そして彼女からぼくへ伝播でんぱしていく重ったるい悲しみの倦怠感が、たしかにあるはずだった。


「どうでしょう?」


 陽子さんは繰り返す。

 彼女は臆病に見えて案外、我を通す性格だということをこのとき気付いた。


「いいよ。付き合うよ」


「本当ですか? よかったです」


 そう言って頭を下げる。

 やはり、陽子さんには狡猾さを感じた。


 しかし、それも裏を返せば人間臭い一面だし、何より自分にもそういう過去があったのは確かだ。


 ふと、陽子さんから、名称や意味を剥ぎ取ったらどうなるかを考えた。

 言葉通り服装や下着もだ。もちろん、一人の裸形の女性が現れる。

 その胸を切り開いたら、悲しみの色が分かるのだろうか。

 ぼくの世界を瞬時に褪色させた原因が分かるのか。


「あれ、見てください」


「えっ?」


 彼女が指さしていたのは、向こうの壁に貼られている紺色のポスターだ。

 よく見てみると、プラネタリウムを宣伝しているらしい。


「最近リニューアルオープンをしたばかりらしいんです。ここのマスターが好きなんですよ、こういうの」


「陽子さんは前に月が好きって言っていたよね」


 はいと頷く。


「じゃあ一緒に行こうよ。プラネタリウム」


 陽子さんをプラネタリウムへ誘ったのは、どこか自傷行為に近いものがある。

 皮膚を刃物で切り裂いて、そこに覗く白い脂肪と、滲み出る赤色。

 その滴りを、ぼくは望んでいるのだ。


 そこでガチャンと音がした。

 彼女が手を上げた拍子に、手元のカップを倒したのだ。


 彼女はいつのまにか同じ紅茶を飲んでいたらしい。

 レモンの香りと共に、薄茶色の液体が音もなく広がっていく。


「ごめんなさい」


 彼女はすぐに立ち上がって、奥からタオルを持ってくると、急かされているような勢いでテーブルを拭いた。

 たしかに急ぐことではあるけれど、その一連の動作には異常な雰囲気をはらんでいる。


「そんな気にしなくても大丈夫だよ。ほら、どこも濡れていないしさ」


「すみません、驚いちゃって……」


 驚いたというのは、ぼくの突然のお誘いのことだろう。

 手を上げたのが、断るためか承諾するためか。


 とにかく、彼女の物腰は、丁寧を通り越して執拗でさえあった。

 それがぼくに対する警戒心や怯えから来るのかどうかは分からない。


 お見舞いの付き添いをお願いされたぼくだけれど、まだどこか溝があるような気がしてならないのだ。


 それでも彼女から離れられないのは、どこか煙草と似ている。

 それ自体が欠如と充足を繰り返し、依存を引き起こすのだ。


 彼女が落ち着いたのを見計らってから、


「陽子さんは友達と映画とか行ったりするの?」


「いえ、あまり友人がいないんです。だから、こういうのもはじめてで」


 彼女の性格なら、いくら引っ込み思案と言っても友人の一人や二人はできそうなものである。

 そうなると、むしろ彼女の方から壁を作っているのだろうか。


「なら、ぼくは陽子さんの数少ない友人だ」


 ぼくの軽口に、彼女は「はい」と頷いた。

 微笑んだように見えたけれど、そういうときに限って髪に隠れてしまうのだ。


「田辺さんは、友人が多い方なんですか?」


「いや、ぼくも気が合う友達なんて数人だよ。大半は大学ですれ違った時に挨拶をするくらいさ」


 人付き合いの少ない陽子さんが、二度ならず三度もぼくと会ってくれるのは、絵はがきの件を後ろめたく感じているからなのだろうか。

 それともやはり、ぼくが父の死を抱える似た者同士という理由なのか。


 本人に訊ねてみても、明快な答えを出してくれる気がしないのは、彼女から疎外感や自分の本心に触れさせようとしない壁が、うっすらと伝わってくるからだろう。


 こんなに近くにいるのに、ぼくは寂しい気持ちでいっぱいだった。

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