第10話「喫茶店」

 そこでぼくは、この世の一切から色が抜け落ちていないことに気付いた。

 同じ美術館で、同じ絵画に囲まれているのにも関わらずだ。

 やはり、あれは陽子さんが原因なのだろうか。


 ぼくは牧田さんという人間で思い出を上書きしようと目論んでいた一方、同じような現象が起きればどうしようかと不安にも思っていた。

 だって美術館で二度もあの体験に襲われたら、金輪際、芸術というものから距離を置かなくてはいけないからだ。

 しまいには家に飾ってある複製画にも波及してしまう。


「田辺くんは、それになんて返したの?」


 雨が降るように、彼女の声が落ちた。

 それは、ぼくの心に波紋を作らない。


 牧田さんの言う「それ」とは、陽子さんの発した「いつか悲しみを乗り越えられるというけれど、あなたがまだ受容できていないのに」という皮肉のことだ。


 ぼくは首を振る。


「返す言葉がないよ、その通りだからね」


 だからこそ、多少の苛立ちもあった。それに驚きも。

 あの弱気な唇から、ああいう言葉が出てくるなんて思いもしなかった。


「その女の子には入院中のお母さんがいて、もう寿命も近い。そういう重たい話を、会って二回の田辺くんにしたんだ」


 彼女は一言一句を丁寧に発音して、復唱するように言った。


「そうだよ。つまり、ぼくが牧田さんにそういう相談をするようなものさ。驚くだろう?」


「うん。でも私は絶対に、『人は誰だって死ぬんだから』とは返さないよ」


 絶対に、という部分で牧田さんは力を込めた。

 ぼくは叱られている子供のように俯いて、テーブルに視線を落とす。


「ねえ。どうして、そんな酷いことが言えるの?」


「だって、ぼくだって同じ経験をしているよ」


 そこで牧田さんは息を吸ってから、


「私とお誘いを受けてくれたのはうれしいよ。でも、田辺君は私とここにいるべきじゃない。その子に会いに行ってあげるべきだよ」


「べき」という言葉は昔から嫌いだった。

 何々すべき、何々するべし。

 拒否反応が出るのは、ぼくが怠惰な人間で、とにもかくにも強要されることが嫌だからだろう。


「田辺君が辛いのはわかるけれど、せめて返事だけでも返してあげてよ。会う・会わないは、田辺君に任せるからさ」


「わかった。そうだね、返事はするよ」


 降参したわけではなかった。

 ぼくは今の今まで、返信を送ることに気が付かなかったのだ。

 会いたくないばかりに、メッセージを無視して返事も寄越さない。


 自分はどうしてこうも極端な人間なのか。

 

 そこで堤に、「陽子さんのことも捨てるのか」と訊ねられたのを思い出す。

 今の牧田さんとしても、似たようなことをぼくにぶつけたいに違いない。

 

 ぼくが陽子さんを捨てるのではない。

 彼女がぼくを捨てるのだ。

 

 だって、そう言っていたじゃないか。

 私も月に行きたいと。何もかも捨てて、月へ行きたいと。


 そのときにぼくが覚えた寂しさを、彼女は返事がない間ずっと感じているのだろうか。

 そう思うと、はじめて彼女に同情した。

 傷付けられたから、傷付けてもいい。

 そんな小学生のような理論で行動していたことに気付いたぼくは、自分の幼稚さに今さら呆れる。


「やっぱり、同じ展示を二回見るのは退屈だった? ごめんね」


 突然話題が変わったので、


「いいや、どうして?」


「だって、ずっとよそ見をしていたね。周りをキョロキョロしてさ」


 牧田さんは、すっかり絵に気を奪われていると思っていた。

 それ以外が目に入らないほどに。

 しかし、彼女はきちんとぼくのことも見ていたのだ。


「違うよ」


 ぼくは、ぼくや君を囲んでいる色鮮やかな絵画から色彩が死んでいくのが怖いんだよ。牧田さんは、そういう経験をしたことはある?

 気が進まない。口が開かなかった。

 

 それよりも陽子さんに一言謝ろうと思っていたのだ。


「ごめん、おれ……」


「うん。私、売店でゆっくり見て回るからさ。行ってきなよ」


 牧田さんは笑っていた。

 はじめからこうなることを知っていたかのように。

 一人で来るのが場違いで恥ずかしい、という誘い文句をしたのは彼女の方なのに。


「ごめん、ありがとう」


 ぼくは美術館を出て、駅までの道を走った。


 もう一度、思う。

 自分はどうしてこうも極端な人間なのか。


 あれだけ「苦手」だなの「ざまあみろ」だの毛嫌いしたくせに、牧田さんに言われたくらいで簡単に気が変わるのだ。


「せめて返事だけでも返せ」の「せめて」がどうしてか印象に残った。

 そこに牧田さんのやさしさを見たし、ぼくの傲慢さを見たし、陽子さんの悲哀を見た気がしたのだ。


 ぼくはこれまで陽子さんの心情を考えなかった。

 そうだ、そもそも相手はまだ未成年の女の子だぞ。

 どのような形であれ、それがぼくを傷付ける行為であれ、少しはやさしくしたっていいじゃないか。


 彼女はこの先、ぼくと同じ喪失の道を辿るのだから。


 冷たい外気を肺いっぱいに満たすぼくは、季節が進んでいることを痛感する。

 星が巡り、誰か生まれて、誰か死んでいく。


 黒いアスファルトだって、四季を映す鏡になる。

 とくに秋の歩道は忙しい。


 はじめは銀杏が潰れてくさいし、舞い落ちた紅葉は雨に濡れて滑る。

 寒さが厳しくなって霜が下りても、まだ根雪にはならない。


 近頃は雪が積もっては溶けてを繰り返しているのだ。

 それでもあと数日もすればドカッと降り積もって、いよいよ春まで消えない雪景色が広がるだろう。


 それまでの何かを閉じ込めるかのように。

 そして春にそれを披露するかのように。


 地下鉄に揺られながら、喫茶店へ向かっている胸を陽子さんに連絡した。

 しかし、いくら待っても既読は付かない。

 彼女はずっとこういう焦燥感を覚えていたのか。

 鳴らないスマホを、震えないスマホを握って、貧乏ゆすりだけが増していく。

 


 でこぼこの路面に車体が揺れて、目を覚ます。

 喫茶店に向かうバスの中で、ぼくは眠ってしまったらしい。


 前方にある電光掲示板を見ると、ちょうど次が目的の停留所だ。

 ぼくはほっとして、窓硝子の結露を手の側面で拭う。


 最近は陽が落ちるのが早い。

 まだ十六時だというのに、すっかり夜の帳が下りている。


 まだ水滴の残っている冬の夜景は、様々な色が滲んでいた。

 信号の赤、看板の青、気の早いイルミネーションの白。

 まだ夢の中にいる気がした。

 ガタンと音を立てて、再度バスが揺れる。


 バスを降りて、一人で夜道を歩いた。

 おそらく、陽子さんもこの道を通っているに違いない。


 裏通りの目立たない場所に、その喫茶店はあった。

 民家を改装したような佇まいだ。

 実際、住宅街の中にぽつんとあるので、一見したところ飲食店とは思えない。


 白木のドアを開けると鈴が鳴って、パンの甘い香りがした。

 レジで会計をしていた陽子さんはすぐにぼくに気が付いて、驚いたように動きを止めた。


 棒切れのように立ち尽くすので、不審に思ったお客さんがこちらを振り返る。

 それをきっかけに、陽子さんは手早く会計を済ませた。


 その男性客が退店しようとぼくの前を通り過ぎたとき、陽子さんはたしかに目を丸くしていた。

 しかし鈴が鳴って足元に冷気が流れ込んできたときには、彼女は笑っていた。


 一瞬の暗転の隙に、変わらない構図の画面の中で、陽子さんの表情だけが変わっていたのだ。

 思いがけない表情に、ぼくは少し照れくさく感じた。またそれ以上に、驚きも……。


 彼女はこちらに寄ってきて、


「いらっしゃいませ。来てくれたんですね」


「うん、少し道に迷ったよ」


「そうなんです。分かりづらいところにあるんですよ」


 陽子さんに案内されて、二人がけ用の小さな丸テーブルに腰を下ろした。

 マフラーとコートを椅子の背もたれにかけながら、店内を見回す。


 ここは、パン屋と喫茶店をあわせたような珍しいお店だった。

 客は店頭に並んでいるパンを買って、その場で食べることができるというわけだ。

 店内は狭いけれど、美味しそうなパンが数多く並んでいた。


 ぼくはハニートーストを買って、紅茶を注文した。

 お客は、ぼく以外にいない。

 その静けさが心地良かった。


 待っている間、ぼくは陽子さんを目で追っていた。

 先日のぼんやりとした印象とは打って変わって、彼女は手際よく仕事をさばいている。

 皿を洗ったり、紅茶を沸かしたり、会計をしたりと、そつがない。


 奥の方を覗くと、パンを焼く四段式のかまや、小麦粉から生地をこね上げる大きな壺のようなミキシング器が見える。

 外注ではない、焼き立てのパンを食べることができるのだ。


 なるほど、返事がなかったのは勤務中だからだ。

 となれば、彼女は今日一日どんな気分だったのか。

 ぼくに連絡をして既読が付いても、待てど暮らせど返事がない。


 とうとう出勤して、ロッカーにしまってあるスマホは鳴るのか鳴らないのか。

 仕事に疲れてフウと一息ついたところで音沙汰がなければ、落胆するに決まっている。


 何はともあれ、今日は会えてよかったと思った。

 まさか陽子さんが、ぼくに屈託のない笑顔を見せてくれるなんて、思いもしなかったから。


 どんな話をしよう。固い話は無しとしよう。

 そのとき、まるでクリスマスのベルのように、胸に潮騒が流れ込んでくるのを感じた。

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