第9話「美術館2」

 連絡先を交換したあと、みんなでカラオケへ行こうという流れになった。


 ぼくは慣れない騒ぎに疲れていたし、音痴だったので、一人だけ抜けた。


 堤もそれを分かっていたのか、


「用事があるもんな」


 と、配慮してくれたので、グループを抜け出すのは容易かった。


 一人、冬の都会を歩いた。

 酒に酔っているせいか、冷気が心地良い。


 街は様々な光を放って、酒と煙草と男女で溢れている。


 冬の夜に輝く信号機の赤を見上げて、なんとなしに、牧田さんの吸う煙草のフィルターに付いた口紅を、ぼくは頭に思い浮かべていた。


 彼女は、陽子さんと比べて様々な表情をした。

 笑ったり、ねたり、恥ずかしそうに眉を下げたり。


 でもけっして、お父さんを思い出すような横顔は見せない。


 悲しそうにうつむいて「月に行きたい」とも言わない。


 ましてや、ぼくの傷口を抉るような意地悪な笑みを浮かべない。


 居心地がよかった。

 あの合コンの喧噪の中でも、僕と牧田さんの二人しかいないような感覚があった。


 陽子さんの場合は世界から切り取られた不安や不自然があるけれど、牧田さんのそれは違う。


 あの快活な女性とは、単純に話が弾むし、余計な気を遣わずに済むのだ。

 はじめに自己紹介をしたけれど、ぼくは牧田さんの下の名前がわからない。


 スマホで交換したばかりのラインを見ると、MAIと表示されている。

 舞か麻衣か、あるいは真衣か。

 これだけでは不明だ。


 そこでポロンと通知音が鳴る。


 陽子さんから連絡が来たのだ。


 ぼくは咄嗟に息を止めた。

 全身にくまなく緊張が走り、冬の冷たさは彼方へ飛んでいく。


 痺れているてのひらの上には、


『三十日、喫茶店で会えませんか?』

 とあった。


 一文で短いものだから、わざわざ既読をつけなくてもいい。


 ぼくはサッとスマホをコートのポケットに滑り込ませて、逃げるように煙草に火を点けた。


 牧田さんとは、最寄りの駅で集合して美術館へ向かった。

 彼女が提示した日にちも、やはり三十日である。


「今日はありがとう。はじめてだから楽しみにしてたんだ」


「うん、それはよかったよ」


 並んで歩くと、彼女を見上げていることにぼくは気付く。

 向こうはブーツを履いているとはいえ、そこまでヒールの高いものではない。


 ぼくが低く、彼女がスラリと高身長なのだ。


「合コンのあと、どうなったの?」

 ぼくが訊くと、


「最悪だったよ。カラオケの途中で一組抜けたから、私と女友達の堤君の三人が残ったの。主催した男女がいなくなるから、もう気まずくてさ。すぐに解散したんだ」


「初対面なら仕方ないよね」


 そこで牧田さんが足を止めた。


 目を丸くして、


「私、あの人と付き合っていたんだよ。聞いてなかったの?」


「全然知らなかった」


「もう半年も前の話だけどね。偶然、鉢合わせてびっくり。私と堤君が気まずそうにしていたの、気付かなかった?」


 気付かなかった。

 ぼくはぼくで、はじめての合コンに緊張していたのだ。


 他人の人間模様を察知をできる余裕なんか、どこにもない。


「あいつ、何も言ってなかったなあ」


 ぼくがこぼすと、


「そういう人でしょう? もともと」


 吐き捨てるような言い方から、あまり円満な別れ方をしたわけではなさそうだ。


 ちらりと横目を遣う。

 先日と違って、牧田さんの唇は自然に近い桃色をしている。


 今日こそ、真っ赤なルージュであってほしかったのに。


 ふいに、彼女の唇が横に伸びた。

 中から白い歯が覗く。


「ねえ、何を見ているの?」


 笑いながら牧田さんは言った。


 はなから口元を見ていたことがバレていたと知ったぼくは、急いで目を逸らした。


 誤魔化すように、


「もう着くよ。ほら、あれだ」


 二人の見上げた先には、白い建造物があった。


 豆腐の角を斜めに落としたような建物は、二階中央に大きな窓硝子をこしらえている。


 お客さんはロビーでくつろぎながら、その一面の窓から彫刻のちらばる庭を一望できるのだ。


 今は雪が積もっているけれど、夏なら鳥が鳴いて、蝶が舞うらしい。


「変わった形をしてるね。建物それ自体が芸術みたい」


 素直な感想を漏らす牧田さんに、ぼくは頷いた。


 彼女の隣にいれば、自分は平穏でいられる。


 言葉の裏に潜む悪意や真意に振り回されることもなければ、悲しげな表情に取り乱すこともない。


 ぼくは美術館に足を踏み入れる前から、期待通りに陽子さんの色が蝕まれていくのを肌に感じた。

 柄にもなく浮足立つ。


 ざまあみろ。

 そう思った。


 モネの展示は来年の一月までやっているとのことで、まだまだ盛況である。


 今日も水曜日の平日だけれど、むしろ前回が少なすぎたくらいだ。


「へえ、こういうところなんだ」


 そう言ってすぐ、牧田さんは口を塞いで視線を巡らせた。


 自分の声が思ったより大きくて響いたからだろう。


 それから声をひそめて、


「ごめん、いつもうるさいところで遊んでいるからさ」


 照れるように笑った。


「いいよ。あまりお客さんもいないしさ」


 彼女の素直な反応が愛おしかった。

 きっと学芸員さんだって、牧田さんのように偏見なく作品を鑑賞してくれる人なら、多少騒がしくても見逃してくれるだろう。


「わあ、すごい」


 彼女は小走りで寄って、作品に食いついた。

 腰を屈めて、穴の開くほど見入っている。


 水彩画と違い、油絵は絵具を何層にも重ねていくので、自然と立体的になる。

 そういう部分を近くで見るのが、また面白いのだ。


 くるりと振り返って、


「これ、全部本物だよね?」


「そうだよ。フランスから取り寄せているんだ」


 すごいともう一度口元で言ってから、再び絵画に視線を戻す。


 ぼくはなんだか、絵画よりも、それを子供のように鑑賞する牧田さんを見ている方が楽しかった。


 それから浮世絵のフロアへ行くと、彼女はますます興奮した。

 たしかに教科書や画集でしか見たことのない絵を、この目で見られるのは不思議な感覚だろう。


 歌川広重の浮世絵から着想を得たモネは、橋の架かった庭と、その池に浮かぶ睡蓮を描いた。

 この作品もまた、「連作」による『睡蓮』の一つである。


 また、彼の日本趣味的な絵画で最も有名なのは、『ラ・ジャポネーズ』に違いない。

 赤い着物を身に纏っている金髪碧眼の西洋美人が、こちらを振り返っているものだ。


 着物には紅葉のような葉がちりばめられており、臀部から足元にかけて刀を抜こうとする武士が鎮座している。


「はしゃぎすぎかも。ごめんね」


「休憩しよう。二階にロビーがあるんだ」


 ぼくたちはそれぞれ飲み物を買ってきて、ローテーブルについた。


 ふうとひと息付くと、ポロンとラインが来る。

 人といるときにスマホをいじるのは好きではないので、コソコソと隠れるように見ると、


『今日、忙しいでしょうか?

 お返事だけでもください。』


 陽子さんだ。

 やはり、というべきか予期していたことではある。


 そこでサッと影が下りる。

 ココアを取りに行った牧田さんが戻ってきたのだ。


「ごめん、見ちゃった」


「いいよ。気にしないで」


「もしかして、今日誰かと約束していたの?」


 首を振って、


「一方的なお誘いだよ。返事もしてないんだ。最近知り合ったばかりの女の子なんだけど、どうにも合わなくてさ」


「ふうん。合わないってどういう子なの?」


「入院中のお母さんがいるらしいんだけど、それを会って二度目のぼくに話してくるんだ。余命は今年いっぱいで、助かる余地はないっていうことを淡々と口調でさ。だから、ぼくは言ってやったんだ。人はみんな死ぬんだから気にするなって」


 気が付いたら、ぼくは熱を込めて話していた。もう自分の意志とは無関係に口が動く。


 牧田さんが表情を曇らせているのも、近くでコーヒーを飲んでいるお爺さんがこちらを見ているのも、全部わかっている。


 今すぐに口を閉じて、「何でもないよ」と手を振れ。そうすればまだ取り返しはつくぞ。


「ぼくも似たような経験をしていて、父親を癌で亡くしているんだけれどさ。それを話したら、あなただってまだ受け容れられていないのにって言い返してきたんだ」


 牧田さんの両手の中で、ココアが湯気を立てている。

 彼女の後ろでは雪景色が色もなく広がっている。


 喪われていない白。

 何色にも染めることができる裸の色。

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