第7話「居酒屋」

 陽子さんは、きっと月の世界の住人だ。

 彼女はかぐや姫のように、月へ帰るのだ。


 ぼくはそう信じこむことで、彼女に指摘された複数の言葉から、実質的な意味をぎ取った。それはまるで、堤が教えてくれた哲学のようにだ。

 

 物の存在に意味はない。

 ただ、そこにあるだけ。

 名称や存在意義は透明なヴェールのように、物を包み込んでいる。


 それを剥がし取ったあとに残るのは、裸の存在だ。

 

 陽子さんに対しても、同じことができる。

 あらゆる意味を奪い取って、美術館の時に湛えていた目映まばゆい色彩すら剥がし取るのだ。


 そうすると物事は驚くほど単純になる。

 あいつはろくな女じゃない。

 浮世離れした、もっと言えば常識のない女なんだ。

 だから彼女の言うことなんて、耳を貸す必要はない。


 そういう手触りのいい結論に、容易に至ることができるのだった。


 ――あなたがまだ、できていないのに……?


 それは、ぼくの「きっとお母さんの死を受けれることができるよ」という無責任な言い草に対する反論だ。

 このフレーズは、あの月光にたゆたう微笑とともに、ぼくの脳内を執拗に駆けずり回った。


 どうして、知り合って間もない他人に、そんなことを言われなければいけないのか。

 

 たしかに陽子さんは美人だ。

 ただ、それだけで丸々惚れこんでしまうほど、ぼくも馬鹿ではない。

 

 あの、ものぼっていない早朝の公園以降、ぼくはすっかり彼女を嫌悪するようになった。

 喫茶店の名刺も、そこらに捨てたほどだ。


 厄介なのが、父親の死を慰めるために買ってもらったモネの複製画レプリカと、陽子さんが購入した絵はがきが同じ作品ということである。


 どうしても思い出さざるを得ないし、けれど捨てるわけにもいかない。

 公園の一件があるまでは、むしろ心がおどっていたというのに、それが嫌な記憶といったん結びつくと、どうにも手に負えなくなる。

 そのような不便さがまた、彼女をより恨みがましく思う一因となった。


 もう二度と、会いたくない。



 堤から連絡があったのは、公園で会ってから数日経った頃だ。


「豚精肉と、砂肝。それとアスパラをお願いします」


 猥雑わいざつの片隅のテーブルに腰を下ろして、ぼくたちは酒を飲んでいた。

 二人は図書室で話すことが多いけれど、たまにこうして街へ繰り出すことがあるのだ。


 ここは洒落しゃれたバーとは違い優美なジャズは流れていないし、夜景を一望できるめ殺しの窓だってない。


 所詮しょせん場末ばすえの居酒屋で、下卑げびた大人が猥談をさかなに酒をかっくらう大衆の場だ。


 居酒屋は繁盛しており、狭い店内は煙草と焼鳥で真っ白に煙っている。

 喚声かんせいが飛び交い、グラスを叩き付ける音が絶えない。


「そうそう。ノートありがとう。返すよ」


 ぼくはそれを受け取りながら、


「うん。どうだった?」


「助かったよ。色々と勉強になった。前にサルトルに興味持っていたけど、続きを話そうか?」


 ぼくは苦笑いして、


「いいよ。もうたくさんだ」


「なんだよ、陽子さんとはどうなったの?」


「聞かないでよ。めしがまずくなる」


 聞くなと言ったら、堤は本当に聞かない男だ。


 ぼくは運ばれてきた鳥串にかぶりつく。

 香ばしい旨味といっしょに、肉汁が口内に広がった。


 やわらかい肉の線維を、ほぐすように咀嚼して飲み込んだ。

 鼻の穴から息を吐くと、呼気に混じって再び旨味を感じる。


 それを逃さないうちにハイボールを流し込むと、ウイスキーとレモンの冴え返るような香りが、弾ける気泡と共に喉を潤わせた。

 そこに挟みこむホープの煙が、また一入ひとしおである。


「なら今年のクリスマスも一人か、田辺」


「ふん。クリスマスも正月も、今日と同じだよ」


 ぼくがわざと斜に構えたことを言ってみせると、堤は酩酊した赤ら顔をほころばせる。

 そうして彼は串を食べようとするも、思い直したのか口を閉じた。

 串の代わりに煙草をくわえて、煙を吐く。


「堤は最近どのくらい吸ってるの?」


「一日ひと箱だよ。田辺は?」


「数本かな。吸わない日もあるよ。お前こそ何かあったの? ずいぶん吸ってるじゃないか」


 彼に限って、ぼくのように哲学者を気取るために煙草を灰にしているわけではないのだろう。

 以前も女性関連で落ち込んだときには、ひっきりなしに吸っていたものだ。


「彼女に振られたのか」


「それがそうなんだよ。今年の夏休みにカナダに留学していたんだけど、帰ってきてから妙によそよそしいんだ。案の定、向こうに男を作っていてさ。一昨日から返事がないよ」


「何か事故に遭ったとかじゃなくて?」


 堤はフンと鼻で笑う。

 馬鹿にしたのではなく、あまりに惨めな思いからくる自嘲じちょうだろう。


「Instagramは更新しているんだよ」


「そうか。なら、お前だって俺と同じじゃないか」


「本当にそうだね」


 堤はため息といっしょに煙を吐いて、煙草をもみ消した。


 彼の気持ちはよくわかる。

 臆病な目をしながら、肺を汚して満ちてはすぐに枯渇する欲求を一時的に埋め合わせるだけの無為な行為が、反って自己憐憫じこれんびんの役目を果たすのだ。


「この前の田辺じゃないけれど、今の俺からしたら世界がモノクロだよ。まだ十二月にもなっていないのに、シャンシャン音がしてさ。あっちもこっちもイルミネーションばかり」


 そうして「くだらない」と語気を強めて吐き捨てた。


 らしくない態度にぼくは笑いがこみあげてきて、


「ひがむなよ。恋人がいる男にとっちゃ、そういうのが文字通り色鮮やかに見えるんだからさ。今年は男友達で集まって過ごそうよ、な?」


「いいや、俺はそんなことしない」


 何を言い出すかと思いきや、堤はスマホをぼくに渡してきた。


 また柴犬だの何だのを見せてきたらどうしようかと思ったけれど、そこに映っていたのは数人の女性が居酒屋の座敷で飲んでいる写真だった。

 服装から、季節は夏だろうか。


「これは何?」


「女子大の人たちだよ。友達に誘われてさ、今度合コンをすることになったんだ」


「へえ」


他人事ひとごとじゃないぞ。田辺も行くんだよ。人数が足りないからさ」


 まずい流れになってきたと思いながら、


「いやだよ、それに何を話していいかも分からない」


 怖気おじけづくぼくに、


「たまにはいいだろう。陽子さんともアレみたいだからさ」


 そこで彼は背もたれにからだを預けて、


「まあ、十一月も終わりの合コンだからさ、みんなクリスマスに一緒に過ごす相手を見付けたいんだよ。だからほかのメンバーは、ちょっと浮き足立っているかもしれないけど、田辺は勝手に飲んで食っていればいい。無理に話なんかしなくてもいいよ」


 合コンと言えば大学生の醍醐味だいごみだけれど、経験は一度もない。

 そういう賑やかな集まりが苦手なので、断り続けているうちに声もかけられなくなったのだ。


 堤はそんな中でも、入学当初から続いている大切な友人だった。

 考えてみれば、こうやって胸の内を吐き出せる友人は、彼くらいなものだ。


 合コンは憂鬱だけど、同時に魅力的でもある。

 あわよくば、誰か女性と仲良くなりたかったのだ。

 陽子さんのことをキッパリ忘れてしまえるような、正反対の性質を持っている女性ひとと。


「そういえば、あれから美術館の時みたいな経験はしたの?」


「色がなくなったことは、もうないよ。後にも先にも、あの時だけだね。だから、サルトルのうんたらかんたらは関係なくて、ただ好みの異性と出会ったから興奮していただけかもしれない」


 半分は本心で、半分は嘘だった。


 ぼくは彼女との思い出に特別な意味を与えたくなくて、あえて世俗的な、もっと言えば単純な理論で説明をつけようと試みたのである。


 あれは哲学的な現象ではない。ただの見間違いだ。

 そうでなくても、男が女を見たら欲情して、周囲の光景がおかしく見えただけだ。


 そういう思惑すら、陽子さんが知ったら指摘されそうだ。


「じーっと一点を見つめていると、他のものが見えなくなるのと同じだよ」


「ふうん、そういうもんか。残念だな。せっかく珍しい体験をしたのに、それを取るに足らないことだって切り捨てるのはさ」


 切り捨てるという言葉を聞いて、ぼくには思うことがあった。

 同じことを考えたのか、堤はそれを代弁してくれる。


「そういや田辺って何でもかんでも、すぐ捨てるよな。何かに取り憑かれたように、ポンポンさ」


 そう、ぼくにはそういう悪癖があった。


 スマホにおけるメッセージの履歴は、会話が終わればその都度つど消去する。

 不要だと思ったら、本やゲームなどはその日のうちに売り払わないと気が済まない。


 それで何度も会話に齟齬そごが生まれたり、手放さなければよかったと後悔したことがある。


 そのような態度は、やはりお父さんの死別に帰着するのだろう。

 ぼくは肉親を、病によって奪われた。

 不条理に、あっけなく。


 だからぼくは、二度と自分のものを奪われないよう、自ら捨てていくのだ。

 所有が、喪失を生むのだから。


「陽子さんのことも捨てるの?」


 堤の声に、非難の色はなかった。

 

 愛着があるから離れたがっているのか。

 それとも本当に、毛嫌いしているから距離を置いているのだろうか。


 考えるのも面倒で、ぼくはハイボールを一気飲みした。


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