第6話「月」

 ぼくが返事に窮したのは、彼女の言葉がただのロマンチックな願望なのか、それとも遠回しな希死念慮なのかを判断できなかったからではない。


 その真意はともかく、彼女なら本当に行ってしまう気がしたのだ。

 自分の未来を捨てて、病床の母親を捨てて、慰めの言葉一つかけられないぼくを捨てて、まるでかぐや姫のように月へ行ってしまう……。


 月の都に帰っていく陽子さんの後ろ姿。

 それは、月光に眩んではっきりとは見えない。


 ぼくは寂しさでいっぱいになった。


「お母さんは、余命一ヶ月と言われました」


 つまり、年内いっぱいという見通しなのだろう。


「お父さんは、何をしている人?」


 ぼくの問いに陽子さんは首を振って、


「物心つく前に離婚して、それきりです。顔も写真でしか見たことありません」


 言葉がなかった。

 彼女の家庭環境は逼迫していて、その上、母親は癌ときている。


 失礼な話だけれど、彼女ほど悲劇のヒロインに相応しい女性はいないと思った。

 美しく、上品で、しかし逃れられない不幸を背負っている悲劇のヒロイン。


 母親まで喪えば、彼女はいよいよ、「ここ」にいる意味がなくなってしまう。


「地球の引力から抜け出すには、毎秒十一キロメートルなんですよね」


 唐突に話題が戻ったので、困惑しながらも「そうだよ」と返す。


「じゃあ、不幸から抜け出すには、どのくらいの速度が必要なんでしょうか」


 なんて悲しい問いなんだろう。

 それを問わなくていけないほど、彼女の中には悲しみが溢れて、今にもこぼれようとしているのだ。


 それはきっと、星の引力を振り切るよりも難しいのかもしれない。


「悲しみは、星よりも手ごわいんでしょうね。私にも、そのくらいのスピードが出せたらいいのに」


 声に出さなかったというのに、どうして伝わったのだろう。


「……その前に、きっと受け容れられるよ」


 そこで彼女が息を吸った。


「あなたがまだ、できていないのに……?」


 そう言って、陽子さんは意地悪な笑みを浮かべた。


 ぼくは息を呑んだ。

 まるで予想していなかった態度である。

 声音は普段と同じように澄んでいるくせに、その口元は美しいほど残酷で加虐的だった。

 

 まばたきをすると、彼女はいつもの弱々しい表情に戻っていた。

 冬が見せた幻かと思うほどに、痕跡がない。


 しかし、その微笑はたしかにぼくの心へ裂傷を作ったのだ。

 その痛みは甘くって、傷口は大きく露出している。

 そこから流れるのは血ではなくって、死顔や、雨に濡れる窓硝子や、他人事ひとごとの心電図や、煙草の吸殻だった。


 ぼくは彼女が望むがままに、その傷口を広げた。

 すると、ぼくがそうしてほしいだなんて一言も言っていないのに、彼女はぼくの肌に触れてきたのだ。

 まるでお返し、いや、仕返しとばかりに。


 ぼくはなんだか、膿んだ傷口がようやくかさぶたになったというのに、それをほじくり返される気分だった。

 

「君の言う通りだよ。大学に合格した時だって、もしお父さんがいたら、どんな顔をしてくれるんだろうって思ったくらいだしさ」


 陽子さんは何も言わない。


「でも、人はいつか死ぬんだからさ」


 ふいに口をついて出てきた言葉に、彼女の顔がさっと青褪めた。

 それに一瞬だけ眉をしかめて唇を結んだのを、ぼくは見逃さない。


 それでも彼女は何を言い返すわけでもなく、ただじっと目を伏せて黙り込むだけである。均等に並んだ長い睫毛を見つめながら、ぼくは彼女に失望されたことに、マゾヒスティックな快感すら覚える。


 どうしてぼくたちは月の下で、お互いを傷付け合っているのだろう。


「スイスみたいに、安楽死が合法化されたらいいのにね。そうしたら、無理に延命されることはない。誰にだって死ぬ権利はあるんだからさ」


「死ぬ権利……?」


 まるで幼児が耳に入った言葉を繰り返すように、ほとんど無垢に彼女は聞き返した。


「常識的には良いことじゃないけれど、自殺だってぼくは悪いことだと思わないんだ。自分の生命に責任をもって、自分の手で幕を下ろすことは、立派な選択の一つだと思う。友人が自殺するだなんて言い出したら、そりゃ止めるけどさ」


「死ぬ権利があるなら、生きる権利もあります」


 彼女の語調が強くなったのははじめてだった。

 ぼくが驚いて顔を上げたので、お互いの視線がしっかりと合う。


 陽子さんの何かしら踏み込まれたくない領域に、土足で入り込んでしまった感覚があった。


「きっと同じことだよ。生きるのも、死ぬのも」


 産声を上げたその時から、死へ向かっていくのだから。

 恒星の太陽にだって寿命はあるのだ。

 人間ぽっちが死なないはずがない。


「田辺さんからは、何か諦めている感じがします。どうせ死ぬんだからって、人生そのものに投げやりな風に見えます」


 彼女の言う通りだ。

 ぼくは肉親の死に直面してから、どこか自暴自棄な態度になったと自覚している。


 だって家族のために懸命に働いていた父の最期が、ああも無惨で苦痛にまみれたものだったのだ。

 報われない人生を見た自分が、厭世的な気持ちになるのも無理はないだろう。


 胸が疼く。

 そういえば自分が煙草に火を点けたのは、きっとゆるやかな自殺を目論んでいたからだと今になって気付いた。


 生きる勇気も死ぬ勇気もない愚かな人間が、煙を吸って自分を傷付けるのだ。

 それが快感や幸福だと錯誤して、無益な自己憐憫に浸る。


 自分への復讐。自分のちっぽけで無価値な人生に対する、最大限の向き合い方。


 全く、自分という存在が馬鹿らしくなった。


「ぼくと違って、陽子さんは、きちんとお母さんと向き合おうとしているように見えるよ。そこがぼくと違って強いと思う」


「強くなんかありません。私には、それくらいしかできませんから……」


 それからしばらくの間、沈黙が続いた。

 時間にすれば一分程度のものだろうが、居心地の悪さに耐え切れなくなるには充分すぎる時間だ。


 話はこれまでだとぼくは温くなった紅茶を飲み干した。

 すっかり冷えてしまったからだをぎこちなく感じながら、ぼくたちは同時に立ち上がる。


 一瞬よろめいた彼女に手を差し伸べたけれど、陽子さんはそれをかわすように身をよじらせた。


 それから陽子さんは何事もなかったかのように、


「今日は来てくれて、ありがとうございました」


「いや、そんな……」


 ろくに慰められない自分を情けなく思う。

 彼女はわずかでも救いを求めて、絵はがきを買ってくれたぼくに期待したのだろうに。


 そんな自分には、足元を取られた彼女を支える権利すらないのだと痛感する。


「ねえ、公園にいるのはアルバイトの日だけ?」


「いえ、ほとんど毎日いますよ。日課になってるんです」


 彼女はマフラーを首に巻きながら答えた。


「お見舞いには毎日、行っているの?」


「はい、できるだけ欠かさず行くようにしていますよ」


 あたたかい息が逃げ場を失い、彼女の眼鏡を曇らせる。


 日に日に衰えていく母親を見るのは、どれだけ辛いことだろうか。

 その時、ぼくは彼女がどうして公園にいるのかを理解した。


 つまり、彼女にとっても母親の衰弱する光景を見ることは苦痛なのだろう。

 だからこそ、ここで時を忘れるのだ。少しでも現実から離れることができるように。


 ところでぼくは、そんな彼女に向かって何と言った?


『きちんとお母さんと向き合っているように見える。そこがぼくと違って、強いと思う』


 失言では済まされない。

 彼女が最も耳を塞ぎたくなるような残酷な言葉を、ぼくは陽子さんにぶつけてしまったのだから。


 謝ろうと口を開いた時、


「お話を聞いてくれて、ありがとうございます。田辺さんのおかげで、少しだけ気が楽になりました」


 まるでぼくの出鼻を挫くように彼女は頭を下げて、足早に公園を出て行ってしまった。


 駅までの道は同じだというのに、言うまでもなく彼女は一人で向かった。

「送っていくよ」の一言すら言えない自分の背中が、あの夢の光景と重なる。


 彼女の背中もまた、以前と変わっていない。死にゆく者を見届けようとする、半ば逃げ腰の、どこか怯えるような後ろ姿……。


 置いていかれたぼくは、もう一度ベンチに座り込む。

 寒さのせいで足が震えていた。


 結局、美術館で味わった現実の喪失と、彼女に見出した鮮やかな色に対する答えは出せなかった。


 その代わりに、ぼくたちの関係は不運で皮肉めいたなものだと改めて実感する。


 ぼくが父親を亡くしていなかったら、陽子さんの悲しみをどうにか癒やそうと懸命になっただろうし、彼女に病床の母親がいなかったら、ぼくは自分の悲しみを彼女にぶつけて甘えただろう。


 一つ違えば、ぼくたちは良い友人になれると思った。

 それが、どちらも親の死を抱えているばかりに、歯車が狂って上手くいかないのだ。


 両者の歯車は回ろうとしても回らず、お互いの心を摩耗させながら、ギリギリと軋んで痛むばかりである。

 噛み合わせがほんの少し合わないだけで、それは円滑に駆動しない。

 でも、そのほんの少しの齟齬が、自分たちを引き合わせたのも事実だ。


 ぼくは陽子さんのあの冷たい表情を思い出しながら、胸に穿たれた傷を抱きしめた。


 陽子さんに付けられた傷痕なら、いつまでも撫でていられる気がした。

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