第5話「公園」

 深々と積み重なった雪は月明かりに浮かび上がって、青白く微睡まどろんでいる。

 陽子さんはベンチに腰かけて、美術館で見た時と同じように、取り留めのない視線をどこにともなく落としていた。


「おはよう」


「えっ」


 まるで予期していなかったのか、彼女はびくりと肩を上げて驚く。


「びっくりしました」


「ごめん。この時間なら、いると思ってさ」


 ぼくは公園の自動販売機で買ったあたたかい紅茶とお汁粉を差し出して、


「どっちがいい?」


「じゃあこっち。頂きます」


 彼女は受け取ったお汁粉を、カイロのようにてのひらで転がしながら、


「喫茶店じゃなくて、ここで会うとは思いませんでした」


 でもあのとき、ぼくをここへ来るように促したのは彼女だ。

 誘ったという表現は誤解を生む。どちらかと言えば、ぼくたちがここで再会するように運命の歯車を調整した、という表現に近い。


 ぼくとしては、陽子さんとの再会を喜ぶ一方で、やはり複雑な気持ちだ。

 長く話していると、彼女の暗い渦に飲み込まれてしまいそうな恐怖。

 それでも、ぼくがここへ来たのは、やはり惹かれているからなのだろうか?

 

「そうだね。隣に座ってもいい?」


「はい、どうぞ」


 雪を払って、冷たいベンチに座る。


「それにしても、ずいぶん暗い公園だね」


「このあたりは、街灯が少なくて。でも、そのおかげで星が綺麗なんですよ。月明りも真っ直ぐに降ってきて。私はそれが好きで、よく来るんです」


「月が好きなの?」


「はい。昔から妙に惹かれるんですよ。田辺さんは?」


「ううん、ぼくは怖いと思うよ」


「怖い?」


「うん。何だか無性に寒々しくて、気味が悪いんだ」


「そうなんですね」


 彼女は困ったように俯いてから、再度顔を上げて、


「絵はがき、ありがとうございました。母も喜んでいました。自分では美術館へ行けないので、あれからずっと眺めているんです。親切な方もいるもんだねって笑っていましたよ」


「具合でも悪いの?」


「はい、入院中なんです」


 そこでようやく、彼女から滲み出る陰鬱な色合いに合点がいった。

 恐らく彼女の母親は、骨折とか盲腸だとか、そういう回復の早い病気ではないのだ。


 もしかすると、父の病んで衰えていく姿を直視できずにいた頃の自分も、彼女と似たような悲壮感を湛えていたのかもしれない。


 湯気の立つ紅茶を飲みながら、彼女の様子をちらりと窺う。


 訊ねるまでもなく、陽子さんは言った。


多発性骨髄腫たはつせいこつずいしゅなんです。もう、治る見込みはありません」


 聞き覚えはなかったけれど、深刻な病気であることは理解できる。


「それじゃあ、一日一日が大切だね」


 そう言うと、彼女は「はい」と大げさなくらい頷いた。


 陽子さんはずっと、誰かにこの話をしたかったに違いない。

 もっと言えば、病床びょうしょうの母親がいるという話をしたくて、ぼくに連絡先を寄越した可能性だってある。

 美術館で絵はがきを買ってくれた、お人好ひとよしのぼくに。


 つまり、話し相手がいれば誰でも良いのだろう。

 自分の胸中に抱える不安や寂しさを吐露とろできるのなら、その役割は必ずしもぼくである必要はないのだ。


 そんな穿うがった見方しかできないのは、ぼく自身、肉親の死を抱えているからだろうか。


 正直、彼女に対して軽蔑に近い感情さえ湧いた。

 利用されている気がしたし、ただでさえ悪夢が尾を引いているのだ。


 とはいえ、ぼくだって邪な感情を彼女に抱いていないわけではない。

「自分勝手なのはお互い様だな」と、紅茶をすすりながら考える。


 彼女は話を続けたくてウズウズと心を捩らせているが、質問をされなければ答えるつもりはないらしい。

 傲慢で醜悪だ。

 にもかかわらず彼女の纏う病的な衣が、それを一つの美にしている。


 ああ、なんて不自然な甘美なんだろう。


 ぼくは観念して、彼女の剥がしてもらいたい瘡蓋かさぶたをつまむように、


「それはどういう病気なの?」


「私も詳しいことは分からないんですけど、血液の癌と先生に言われました」


 癌と聞いて、ふいに煙草が吸いたくなった。

 けれど手元にないから、煙の代わりに、それと同じくらい軽薄な返事をする。


「そっか」


「はい」


 そこで一度会話が途絶える。

 ちらりと横を窺うと、彼女の口元からは白息しらいきは出ていない。

 ぼくが続きを促さない限り、陽子さんは呼吸すら止めているかのように。


「正直に言って、かける言葉がないよ。何を言っても無責任だし、陽子さんの心を癒やす方法を、ぼくには思い付かない」


 彼女が欲しい言葉は、自分だって欲しいのだから。

 そのかけてほしい言葉を形にできなくて、苦しんでいるのだから。


 ぼくはまだ、お父さんの死を克服できていなかったのだ。


 煙草を吸って悦に浸るのも、ニコチン中毒ではない。

 お父さんを殺したそれをあえて吸うことで、ぼくは復讐をしているのだ。


 誰に、どうして?

 わからない。


 ぼくの冷淡ともいえる返答に、陽子さんは驚いた様子もなかった。

 ゆっくりと、噛みしめるようにウンウンと頷いて、あの悲しげな微笑みをぼくへ向ける。


 まただ。

 また胸に、波が立つ。


「いいんです。聞いてくれるだけで、ありがたいんです。それに、かける言葉が思い付かないって、はっきりと言ってもらえて安心しました。私が田辺さんの立場なら、同じでしょうから……」


 彼女はそこで唇を舐めてから、


「なんだか難病みたいで、手の施しようがないほど進行しているんです。今はもう、痛みを取り除く沈痛治療というものを行っているだけで、病気自体を治そうという治療はしていません」


 いわゆるターミナルケアだとか、終末期医療というものだ。

 回復の治療ではなく、いかに苦痛を緩和して安らかに死ねるかということが主眼になってくる。


 人によっては、自分のように無意味な延命はやめてほしいと思う人もいれば、むしろ延命治療をして一秒でもながく生きてほしいと考える人もいる。

 その選択に正しい・正しくないの是非ぜひはないのだろう。


 彼女の気持ちは、痛いほど理解できた。

 少なくとも、理解できると錯覚することはできた。


 抗えない死の運命を目前にした時の、あの途方もない無力感。

 病人にしたって絵はがき一枚で喜ぶ胸中には、きっと数え切れないほどの悲哀があるのだろう。


 ぼくの見るモネの絵と、陽子さんの母親が見るそれとでは、色合いも情景も、まったく異なる印象を与えるに違いない。


「すみません、こんな話をして」


 黙って考え込んでいるぼくに焦ったのか、彼女は慌てて頭を下げた。


 うそをつけ。

 はじめから、その話をするために呼んだくせに。


 まるで仕返しをするかのように、ぼくは口を開く。

 彼女にばかり語らせるのは、無性に我慢できなくなったのだ。


「ねえ、陽子さん」


「はい」


「ぼくのお父さんは、月にいるんだよ」


「えっ?」


 彼女は目を丸くしてから、冬の夜空を見上げた。

 眼鏡のレンズを通り抜けて、その瞳に音もなく月が流れ込む。

 一度でも瞬きをしたら、星がこぼれそうに思えた。


 ぼくがこの話をしようと思ったのは、彼女に同情したからでも、自分に対する弁明でもない。


「一グラムの遺骨をロケットに載せて、月へ行ったんだ」


 ぼくの方を向いてから、陽子さんは困ったように微笑む。


「信じられないですよ」


「本当だよ。SF映画みたいだけれど、現実の話なんだ。もう四年も前のことだけどね。アメリカのニューメキシコ州から打ち上げて、第二宇宙速度で月へ向かったのさ」

 

 ぼくの口ぶりは、まるで夢を語る少年のようになっていた。

 冬の凍えるような風に口元がかじかんでいるのもあるけれど、他人が勝手に話している感覚だ。


「宇宙速度?」


「地球の引力を振り切って、宇宙へ飛び出すために必要な速度だよ。スピードが遅いと、ロケットは引力に負けて落ちてしまうんだ」


「それって、どのくらい速いんですか?」


「毎秒十一キロメートル」


 少し間を置いてから、


「想像もつきません。でも月に行ったお父さんは、ずっと田辺さんを見守ってくれているんですね」


「うん、きっとね」


 それから彼女は息を吸い込んで、


「私も、月へ行きたいです」


 と、ささやいた。

 ほとんど独り言のようで、それは白い吐息といっしょに消えてしまう。


「何もかも捨てて……」

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