第4話「サルトル」

 大学の図書室は閑散としていた。


 試験のたびにどっと学生が駆け込んで、ワイワイと勉強に励むお祭り騒ぎが嘘みたいである。

 この時期にここへ来る人間は、本の虫か、資格の勉強をしているやつくらいだろう。


 遅れてやってきたつつみは椅子を引きながら、


「ごめん。雪でバスが遅れてさ」


「いいよ、時間あるし」


 学部は違えど、彼は入学当初から付き合いのある友人だった。

 変わり者だが聡明な男だ。


「これ」


 ぼくは二年も前に取った講義のノートを手渡した。


 大きな手で受け取ると、堤はパラパラとページをめくって、


「ありがとう。お前が物持ものもちのいいやつで良かったよ」


 法学を専攻している堤が、今朝になって急に哲学のノートを貸して欲しいと連絡し

てきたのだ。


「まあ好きに使ってよ。それにしても、興味の幅広いよな。ずっと法律をやって、今日から哲学か」


「うん、ビールとロブスターだ」


「はあ?」


 真っ赤な鼻をかんでから、


「生協の書店にさ、フランスの哲学者に関する本があったんだ。読んでみたら意外と面白いわけ」


 堤はそう言って眼鏡をかける。

 それから分厚いダッフルコートからココアを取り出して、ぼくへ寄越した。

 遅刻のお詫びか、ノートのお礼だろう。


 ぼくはプルタブを引きながら、


「それってサルトル?」


「なんだ、知ってるんだ」


「ほとんど知らないようなもんだよ」


 サルトルは、ぼくが煙草を吹かして哲学者を気取るときに出てくる人間である。

 夜な夜なそんなことをやっているとはまさか伝わらないだろうが、勘の鋭い堤のことだ。ぼくはサッと顔を逸らして、ココアを飲む。


「今日はそれでノートを借りたかったんだよ。基礎的な知識がほしくてさ」


「たしかサルトルって、ビールを哲学的に考察できるって言った人だろ?」


「それはサルトルの友人の言葉だよ。でも、彼はそこから哲学に興味を持つんだ」


「それで麻薬に手を出して、ロブスターに追いかけられたんだね」


 堤は笑って、


「よく知ってるね」


 サルトルは哲学書の執筆の途中、どうにも行き詰まって幻覚作用のある薬に手を出したらしい。

 その影響で、巨大なロブスターに追いかけられる悪夢を見たという逸話がある。


「これが中々、面白いんだよ。物に対して不安を覚えることを、彼は嘔吐っていう言葉で表現したんだ」


「物に対して不安を覚える? あんまりピンとこないね。それも、薬のやりすぎなんじゃないの?」


 ぼくが小馬鹿にするように言うと、


「違うよ。これは誰にでも起きる現象なんだ」


 堤は毅然きぜんと返してから、自分のはめている腕時計を指先で叩いた。


「田辺だって、時計を見ている時に『あれ、これって時計だっけ?』って頭が混乱することはあるだろう。普通だったら『時計に決まってるだろ、ちょっと疲れが溜まっているのかな』なんて済まそうとする」


 そんなことないよ。

 そう言おうとして、ぼくは口をつぐんだ。

 あの美術館における体験は、どこかそういう側面があった気がしたのだ。


 陽子さんの姿を認めた途端、どこか胸騒ぎがした。

 たとえるなら、それは父親の臨終の際に感じた不安とよく似ている。


 どうして自分より年下の美しい女性と、今にも息を引き取ろうとしている父親の姿が重なったのか、ぼくにもわからない。


 けれど、病室では窓やモニターが、美術館では絵画が、どこか自分を突き放しているような不思議な感覚に陥ったのはたしかだ。


「ごめん、つまらないか」


 ぼくが黙り込んでいたせいか、堤は烏龍茶を飲んだあと、ばつが悪そうに言った。


「違うんだ。詳しく教えてよ」


「へえ、意外だな。いつもみたいに聞き流されるかと思ったから、あまり準備をしていないのに」


「似たような経験をしたんだ」


「えっ?」


 その言葉に、彼は身を乗り出した。

 冗談を言う素振りは消え失せて、真面目な顔つきになっている。


「この前、陽子さんっていう人と会ったんだけど、そのときに不思議な経験したんだよね」


「どういう経験?」


 ぼくは躊躇ちゅうちょした。

 絵画の色が無くなったなんて突飛なことを話しても、堤なら馬鹿にせず真摯しんしに聞いてくれるだろう。

 しかし、それでもそんなことを口にするのは抵抗があるのだ。


「その女性と会ったとき、死んだ父親のことがよぎったんだ。どうしてかはわからないけどさ。場所は美術館なんだけれど、周りに合った絵画の色が消えたように見えたんだ」


「目の異常じゃなくて?」


「多分違うよ。だって、その人だけは色があったしさ」


 堤は面白そうに何度も頷いて、


「たしかに、それはサルトルの本に似ているよ」


「だろう? だから、ちょっと教えてほしいんだ」


「じゃあ、これは何だと思う?」


 そう言って堤は、スマホの画面をぼくに見せた。

 液晶には柴犬の画像が映っている。彼のホーム画面のようだ。はじめて見たけれど、どうやら家で飼っているらしい。


「何って、犬だろう。ペットの名前まではわからないよ」


「こいつは『えいきち』だよ。親が矢沢永吉のファンなんだ」


 知るかよと思いつつも、


「それで?」


「田辺も家でハムスターを飼っているらしいけど、名前はなんていうの?」


「おばあちゃんちのだよ。それにもうとっくに死んでいるけど、たしか『よし子』かな」


 堤は神妙な顔をして「うんうん」とひとり納得している。

 いったいどういうことかと訊けば、


「俺たちは『えいきち』だの『よし子』だの、物に名前をつけるだろう?」


 そこで手を上げて、


「ああ、人間以外って意味だよ。それで、ペットに好きな名前をつけるのと同じように、俺たちは物に名前をつけているんだ」


 そこで彼は腕時計を指先で叩く。


「腕時計だって同じだ。何もそういう名前でなきゃいけないルールはない。

 つまり物の名前っていうのは、言っちゃえば偶然なんだよ。

 物と名前の間に、必然性はどこにもない。

 雨が降ったから道路が濡れたとか、寝坊をしたから遅刻をしたみたいな因果関係はないんだ」


 なんだか騙くらかされているような気分だったけれど、「そうだね」と相槌を打って先を促す。


「人間が、これはこういう名前で、こういう時にこういう方法で使うものだって決めたに過ぎない。本来、物はただそこにあるだけなんだ。

 それに無意識にでも気付いたときに、人間は不安を覚えるらしいね。ただあるだけっていう状態が、あまりに空っぽで恐ろしいからさ」


「なんだか斜に構えているなあ」


 ぼくはココアを一口含んでから、


「それで美術館の体験がどう繋がるの?」


「まさに物だよ。田辺はその時、美術館にある全てのものが無意味だって感じたんだ。だから色が抜けるような奇妙な感覚に襲われたんじゃないかな」


「なら、目の前の女性に対しては、人間だからそう感じなかったってこと?」


「必ずしも人間だからとはいかないよ。人は他人をそこらへんの石ころのように認識するときはあるだろう? つまり……」


 そこまで言って、彼は烏龍茶を気持ち良さそうに飲み干す。

 大きく上下する彼の喉仏を眺めながら、


「おい、もったいぶらないでくれよ」


「分からないよ。俺は会ったこともないからな」


 彼は一息ついて、


「ここまでにしよう。俺も喋り疲れたよ。ノート、しばらく借りてもいい?」


「うん、いつでもいいさ」


 ぼくたちは一緒に立ち上がった。


 図書室は少し暑いくらいに暖房が効いており、ぼくはすっかり汗ばんでいる。

 荒唐無稽な話を聞いたせいもあるだろう。


 空き缶をゴミ箱に捨てながら、


「それで、美術館で会ったその女性とはどうなったんだよ」


「うん」


「うんって何だ」


 堤がからかうように笑う。


「変わった人なんだ」


 ぼくが言うと、


「ふうん。どういうところが?」


「なんだか、あの人を見ていると死んだ父さんが思い出されるんだ」


「それはさっきも聞いたけど、どうしてなんだろうね。顔が似ているわけでもないだろうし」


 ぼくは首を振る。


「分からない。でも父さんの夢を見たのも、彼女と会った夜なんだよ。もうずっと忘れていたことなのに」


「もう一回くらい会ってみるのもいいんじゃないの」


「約束しているから、あと一回は会うさ。でも、こういうのは堤の方が適役だと思う」


「いいや、田辺の方が合っているよ」


「どういうところが?」


 ぼくが訊ねると、


「なんとなくそう思うんだよ」


 普段は合理的に物事を考えるくせに、こういう時に限って直感的なのだ。


「カフェやバーを知りたくなったら、いつでも聞いてよ」


「何を言ってるんだ」


「田辺こそ、日和ひよるなよ。彼女いないんだしさ」


 一目ぼれという言葉では済まされない感情を、堤がただの恋愛の枠に当てはめるのは、彼が無知だからではない。

 彼はぼくの心情を特別だと知った上で、あえてそうしているのだ。

 せっかく女性と巡り会えたのに、どこか逃げ腰なぼくを励ますために。


 彼と大学の廊下を歩いている途中、教室の扉や、赤い消火器、プリントがべたべた貼られている掲示板などを舐めるように見た。


 堤が言った通り、たしかにそれらに名前はついているとしても、偶然だ。

 しかしどう意識したって、そういう物から名前を剥がすことはできそうにない。


 それでも、あの美術館で陽子さんだけが瑞々しい色で溢れていた理由が、少しだけ理解できた気がする。


 複製画まで買うほどモネが好きなぼくが、それらを無価値だと考えた上で、彼女にだけ特別な意味を与えたのだ。


 その時、雪庇がドスンと音を立てて落ちた。

 一瞬、窓の向こうにある太陽が遮られたので、ぼくは目眩がする。

 その眩然げんぜんの中に、どうしてか陽子さんの泣き顔を見た。


 自分が彼女に与えたその意味とは……?

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