第3話「絵はがき」

 色彩は、きちんと世界に溢れていた。


 額縁の中で生い茂る木々の緑や、雲の多い空、フランスの三色の国旗など、画家が百年も前に描いた色は、たしかにそこにある。


 ぼくの視線はいまだ彼女の瞳に固定されているけれど、周囲を振り返らずともそれが分かった。


「だめでしょうか?」


「絵はがき?」


「はい」


 相手の女性は恥ずかしそうに頷いた。


「いったいどうして……?」


 話を聞くと、なんでも入館料が思いのほか高く、持ち合わせが足りないとのことだった。絵はがきなんてたった数百円のものだ。小学生のような失敗だと、ぼくはつい笑ってしまう。


「それくらいならいいよ」


「ありがとうございます」


 彼女は柿崎かきざき陽子ようこと名乗った。

 年齢は十九で、ぼくの二つ下になる。

 

 内向的な自分が、初対面の人間に物をねだられて安請やすうけ合いしたのは、恥ずかしい話だけれど、彼女の容姿や声が素敵に思ったからだ。

 それに、美術館で男女が出会うなんて、詩的でロマンチックじゃないか、と。


 館内の売店で彼女が手に取ったのは、モネの絵はがきだった。展示されている作品が、そのまま絵はがきやポスター、クリアファイルなどに商品化されているのだ。


「モネが好きなの?」


 すると彼女は申し訳なさそうに首を振って、


「母が好きなんです。手土産に持って行こうと思って」


 彼女の声は穏やかで澄んでいる。

 それなのに目はきょろきょろと泳いで、ぼくに対する緊張が肌に伝わった。

 彼女の礼儀正しさは人格の成熟というよりも、他者の攻撃を避ける防衛手段の一環だと思われた。


 だからぼくも距離を詰めることができずに、さっきから唾を飲み込んでばかりいる。


「私、睡蓮っていう作品を買ってほしいと頼まれたんですけれど、どれなんでしょう?」


「今、手にしているやつがそうだよ。でも、睡蓮はたくさん種類があるんだ」


 彼女は黙ったまま、小首を傾げた。


 普通、ピカソの『ゲルニカ』や、フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』といえば単一の絵画を指すけれど、モネの『睡蓮』はそうもいかない。


 モネは連作といって、同一の風景を、時間や季節を変えて多くの作品を作ったのである。そういうわけで、『睡蓮』という題名の作品は、おおよそ三百点もあるのだ。


 枝垂れ柳が画面の上から落ちている緑が豊富なものもあれば、水面にまるで泥のように夕焼けが流れ込んでいる陰鬱なものもある。

 一口に『睡蓮』といっても、制作された年月も、鑑賞者に与える作風の印象も千差万別なのだ。


「ここにはモネの睡蓮が三種類もあるもんね。何か、特徴は言われていないの?」


 ぼくが訊ねると、


「何も……。ただモネの睡蓮、とだけ言われてきたんです」


「それなら、陽子さんが一番いいと思ったものを選んだらどう?」


 彼女の名前を呼ぶとき、舌が引きつった。初対面の女性を下の名前で呼ぶことははじめてだったのだ。だから無意識に陽子さんと口に出したのは、自分でも意外だった。


「わかりました。それじゃあこれを……」


 そう言いつつも、彼女の右手は散々迷った。あまり時間をかけるのも迷惑だと遠慮したのか、最後はやけっぱちのような勢いで一枚を手に取る。


 それは奇しくも、ぼくが以前購入した複製画レプリカと同じものだった。


「どうしてそれを選んだの?」


 間違っても非難しているような口調にはならないように、努めてゆっくり、おだやかに訊ねた。


「一番やさしい雰囲気なんです。色が薄くて、少し物悲しいような……。お母さんが喜ぶかはわからないけれど、私はこれが良いなって」


「きっと喜ぶよ」


 ぼくが言うと、相手は「はい」と頷いて、やわらかく微笑んだ。

 見るに堪えない、痛々しい笑みだった。


 外へ出ると、真白な雪が音もなく降っていた。

 薄曇りの空からは、少しだけ陽が射している。

 美しい昼下がりだった。


 ぼくが陽子さんの前でどぎまぎしてしまうのは、きっと女性経験が少ないことだけが理由ではないだろう。


 この女性の立ち振る舞いから感じられる弱々しさだったり、ゆるやかな警戒心が、ぼくの心を動揺させるのだ。


 陽子さんは、たしかに魅力的な女性だった。

 ぼくのような大人しい人間はきっと、彼女のように品があって、落ち着いていて、遊んでいる雰囲気のない人に惹かれるのだろう。

 ちょっと目立たない女の子の方が、ぼくは好みだ。


 しかし、そのような陽子さんに惹かれる反面、憂鬱で重い雰囲気を敬遠したい気持ちもあった。

 彼女と接していると、どうしても父親を連想せざるをえないのだ。


 どうしてだろう。彼女はどこか患っているのだろうか。


「突然の話なのに、ありがとうございました。今度、暇な時にでも寄ってください」


 そう言って彼女が寄越してきたのは、喫茶店の名刺だった。

 アルバイト先で、お礼に何かご馳走するというのだ。


 ぼくは、少し面を食らう思いだった。

 彼女の、僕を遠ざけようとする言動に、明らかな不一致があったからだ。


 名刺に視線を落とすと、


「開店時間は八時なんだ。ずいぶん早い時間から営業しているんだね」


 この時間なら、通学する学生や出勤途中の会社員をターゲットにしているのだろう。


「はい。なので私は七時に出ているんです」


「じゃあ、何時に起きているの?」


 顔を上げて訊ねると、


「四時半くらいですね。それから始発まで公園でぼうっとしているんです」


「えっ、今みたいな冬も?」


「はい」


「寒くないの?」


「寒いですよ。でも、不思議と好きなんです」


 暖房の中でコートを着ていたり、冬の寒空にいこうたり、彼女はどこか浮世離れしている。男でも寒暖に無頓着なヤツは少ないだろうに。


「噴水もあって綺麗なんですよ。冬は水が止まっていますけどね」


 そう聞いて、ぼくは何となしにある公園の名前を言ってみた。


 すると陽子さんは「えっ」と声を上げて、


「そうです。田辺さんも知っているんですね。近くなんですか?」


「いいや、遠いよ。小学生の頃に遠足で行ったことがあるんだ」


 オレンジ色のマフラーを首に巻き直してから、


「もしかしたら、そこで会うかもしれませんね」


 彼女は笑みをこぼした。笑い声を上げるのではなく、どこか寒々しい微笑だ。愛想笑いともまた違うのは、大きな瞳をきちんと細めているからだろう。


「それじゃあ失礼します」


 一礼して踵を返した彼女の後ろ姿は、まるで今から葬式にでも行くかのような厳粛さを湛えていた。


 白のコートを着ているせいで、瞬きをしているうちに雪の街へ消えてしまいそうな危うさがある。


 けれど、ぼくはそれを全く不安に思わなかった。

 むしろ雪に混じって、その存在を溶かしてほしいとさえ思ったのだ。


 彼女の姿が見えなくなるまで、ぼくは静かに立ち尽くしていた……。


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