第2話「美術館」

 目を覚ますと、微熱のような頭痛がした。


 カーテンの向こうはまだ暗い。ゆっくりと鮮明になっていく意識の中で、今のは夢だったのだと理解する。枕元のスマートフォンを見ると、時刻は朝の五時ちょうど。うんざりしながらも、鳴るはずだった七時のアラームを切った。


 冷え切った洋室には、煙草のにおいが停滞している。

 ベッドの足もとに置いている靴下を履いてから、ベッドに腰かけた。昨夜のお酒が残っているのか、少しでもからだを動かすと頭に鈍痛が滲む。


 失恋したわけでもないのに、この頃はずっと気分が沈んでいた。言葉もなく、誰かに泣きつきたかった。でも相手なんていないから、飲み慣れないビールを飲んで昨日は寝たのだ。


 おかしな夢を見たのは、きっとそのせいだろう。

 もう四年も昔の出来事を、今になって夢に見るなんて……。


 それにしても、変な時間に起きてしまったと思う。寝直すことはできそうにないのに、お腹は空いていないし、音楽を聴く気分でもない。


 代わりといったらなんだけれど、封を切ったばかりの煙草をくわえた。普段から喫煙しているわけではないし、母さんはぼくが煙草を吸うのを好まない。

 けれど、退廃的な詩人を気取りたい時にはこれが一番なのだ。灰皿いっぱいに吸い殻を積んでビールを傾ければ、いつだって気分はサルトルである。


 親指で煙草の吸い口を弾くと、灰が舞い落ちた。友人に乱暴だと非難されるが、はじめて吸った時からこのやり方が自然と出るのだ。灰がテーブルに散乱しても気にならないのは、無精な自分の性格だろう。


 青白い煙はまっすぐ立ち上る。風もないのに、ストーブだって点けていないのに、煙は次第にぐにゃりと曲がって、過去の幻影を形作った。


 お父さんは肺癌だった。放射線治療を何度かしたけれど、レントゲンには病巣が増えるばかりで、回復の見込みが付かなかった。


 早期に発見したのにもかかわらず、切除という方法を採らなかったのは、腕の神経を傷付ける恐れがあったからだ。

 病原を取り除いても、利き腕が不能になれば仕事ができないという理由で、お父さんは手術を固く断った。


 それから、偶然レントゲンから白い影が消え去っても、すぐに生まれては血管を通ってからだじゅうを蝕んだ。

 いよいよモルヒネを打ち、尊厳も無しに死んでいったのが十二月のこと。


 周りの人間はどうか分からない。

 けれど、ぼくは悲しむよりも安堵したのが正直なところだ。

 はじめは死を恐れて様々な治療を施したのにもかかわらず、もう助からないところまで進行してしまえば、今度は死ぬことが苦痛を取り除く唯一の手段になったから。


 皮肉な話だと思う。話をすることも、動くこともできず、希望もなくただ苦しむだけのお父さんを見て、ぼくは心の隅で死んでほしいと願ったのだ。


 いっそ死んで、楽になってほしいと。


 この世で一番悲しい願い事は、春を待たずに叶えられた。花のように、冬を越せなかった。

 

 そこで、重い駆動音が近付いてきた。路面を削るような地響きに頭が痛む。

 除雪車だ。深夜にずいぶん降ったらしい。


 カーテンの隙間から、オレンジ色の光が洩れた。

 この部屋は一階にあるので、除雪車のヘッドライトがまっすぐ射し込むのである。


 壁に飾られたモネの複製画レプリカも橙色に明るんで、その輪郭と色合いを、溶けるように滲ませている。

 それは題名を『睡蓮すいれん』といって、ぼくの一番のお気に入りだ。


 そうだ、ぼくは絵をぼんやりと見つめがら、ふと思い出す。

 あの悲しい横顔をした、柿崎陽子という女性のことを……。


 彼女と出会ったその美術館は市内有数の所蔵を誇っており、地域にまつわる芸術品のほか、海外の作品が定期的に展示されている。


 ぼくの目当てはフランスの画家クロード・モネだった。パリのオルセー美術館から取り寄せた数々の作品を、期間限定で展示しているのだ。


 芸術の知識は何もないし、興味も湧かないぼくだけれど、モネだけはどこか無性に惹かれるものがあった。お父さんを亡くしたばかりの高校生のとき、学校の図書室で見たモネの画集に心を奪われたのだ。


 時期が時期だからか、絵画の複製画レプリカを買ってほしいという突然のおねだりを、お母さんは快諾してくれた。

 そういう経緯で買ってもらったのが、『睡蓮』である。


 平日の午前ということもあって、広い館内に人影はまばらだった。おかげでたっぷりと作品を鑑賞でき、そろそろ帰ろうかと思った時だ。


 小さなソファに、一人の女性が座っているのを見付けたのである。

 彼女は空調が効いているというのにマフラーもコートも脱がず、ぼんやりとした視線を宙へ投げていた。


 眼鏡をしているが、その瞳に意識の焦点が合わないのなら、かけている意味がないと思う。

 

 何はともあれ、絵を見ているわけでは決してなかった。

 なら、いったい何を……?


 ぼくが彼女に目を奪われたのは、どこか物憂げで、病的な雰囲気に惹かれたからである。


 ふいに潮騒が流れた。胸が騒ぐ。


 そのときだ。

 白い壁に飾られたいくつもの絵画が、たちまち、その色彩を失った。

 今の今まであったはずの「色」というものが、するりと抜け落ちてしまったのである。


 まばたきをしたり、目をこすってみるけれど、やはり視界に入るすべてのものに色がついていない。ぼくは焦った。何かの病気だろうか。


 目眩にも似たその不安に襲われる中で、唯一、色を湛えているのはその女性だけである。むしろ彼女こそが、ただ一つの芸術品に思われた。


 何故、絵画の色がせてしまったのか。

 何故、彼女だけは色彩をたたえているのか。


 そこで彼女と目が合った。

 夢から覚めたように、女性は瞳を大きくする。


 ぼくを襲った嵐のような感情も、それを境にぴたりと止んだ。

 絵画に再び色が蘇るのを、意識の片隅で確認する。


 お互いに何を言うでもないけれど、二人の視線は離れない。

 口火を切ったのは、相手の方だった。


「あの……」


 彼女は口を開いてから、立ち上がり、ゆっくりと近付いてくる。

 自分はもう、昆虫標本になってしまった。

 彼女の瞳が針となって、ぼくの翅を止めて離さない。


「あの、すみません」


 目の前に立った彼女は、そう言ったきり俯いてしまう。

 何かを言い出そうとして、けれど勇気が出ないかのように。


 いよいよ焦れったくなって、


「どうしたんですか?」


 ぼくが乾いた唇で訊ねると、


「絵はがきを、買ってくれませんか」


 女性はそう言った。


 音符も読めないくせに、がらんどうな館内にやわらかく響いた彼女の声音を、ぼくは音楽の一小節のようだと思った。


 遠い異国で描かれた絵画たちに囲まれながら、二人は少しの間、見つめ合っていた。

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