月の墓標

深雪 圭

第1話「臨終」

 あたたかい冬の午後だった。


 季節はずれの雨が降っていて、病室はうす暗い。長方形の部屋の中には、雨音の代わりにお母さんの嗚咽が潮騒のように揺れている。


 押し寄せてくる悲しみと、引いては何も残さない無力感は、たしかに海岸に立ったときの苦痛と似ている。まるで、からだから血が抜けていくようだ。ひょっとすると、自分がここに立っていることすら忘れてしまいそうになる。



 だから、ぼくは黙ってお母さんの泣き声を聞いていた。背中をさするわけでも、慰めの言葉をかけるわけでもなく、ただ呆然と自分に失望しながら。


 それは、病に冒された父が今にも息絶えようとしている場面だった。意識はとうになく、がんは全身に転移している。宣告された余命はまだ一か月もあるというのに、今日が山場だと朝に連絡があったのだ。そういえば、お父さんは昔からせっかちだったっけ。


 これが運命なんだ。今日が、お父さんのはじめから決まっていた命日なんだ。ぼくはそう決めつけた。それは「自棄になった」という一言では済まされない。だって、今もこうして生きようとしているお父さんに「もういいから諦めろ」と言っているようなものだから。


 一方、お母さんはめげなかった。涙を必死に堪えながら、ぽつりぽつりと小雨のように声をかけはじめたのだ。息をするたびに喉が痙攣して、言葉はちっとも形にならない。だから、はじめはなんと言っているのか分からなかった。


 この期に及んでまだ傷付くことを恐れているぼくは、それが痛々しく見えた。何をやっているんだ。もういいから。そんなことに意味はないだろう、と。


 しかし彼女が懸命に繰り返しているうちに、泣き言の中から、ふいにその言葉がぼくの耳に届く。


「頑張ったね」


 そう言っているのだ。

 ぼくは息を吸い込んで、ゆっくりと目を閉じる。


「起きて」とか「死なないで」と言わないのが、いかにも彼女らしい。お母さんはこれ以上、苦しいだけの生をお父さんに生きてほしくはないのだ。


 だからこそ「頑張ったね」とその人生を労う。かろうじて聴力が残っているはずの夫に、心置きなく旅立ってもらうために。


 不幸にもぼくは、お母さんのような強さを持っていなかった。辛い現実から目を逸らして、あたりを見回しては情けなく心の置き所を探す始末。


 そんな怯えた瞳に映るのは、雨の流れる灰色の窓や、清潔なモニターに表示される他人事の心電図や、病人の口腔に通された透明なチューブだった。


 それらは本来、お父さんの死とは一切関係のない風景のはずだ。それなのに、目に映る全ての物事が、病床の父を突き放しているような冷酷さを持っていた。どこまでいっても病人を救済してくれるものは存在しないことを、この世界はまざまざとぼくに思い知らせてくる。


 もう間もなく、お父さんは死ぬのだ。


 雨が落ちるように、ぼくの視線も最後には悲しい色のスイートピーに落ちた。殺風景な病室が少しでも華やかになるようにと母が持ち込んだものだ。お母さんは喜んでいたけれど、すっかり昏睡した病人のそばに置いたって、ぼくにはなんだか気の早い仏花に思えて嫌だった。


 その嫌悪感は、お父さんの葬儀を何ヶ月も前から内々に進めている事実に抱いていた感情に近しいものがある。理屈では理解できても、感情がそれを許さないのだ。大人の合理性は、時に子どもには残酷に見えるのかもしれない。


「手を握ってあげて」


 お母さんが静かに言った。

 ぼくのことだから、一度口を開いてしまえばせきを切ったように溢れ出すことを、お母さんは痛いほど知っているのだ。だからこそ「声をかけろ」とは言わないのだろう。


 ぼくは言われた通り、ひび割れた唇を閉じたまま、お父さんの手を握る。生ぬるい肌は、すっかり白く褪めていた。日曜のたびにゴルフに勤しんでいた小麦色が、今では見る影もない。


 それからぼくは、体内で毒虫が這いずり回ったかのような血管の盛り上がりを、ぐっと押し込む。その指先には、たしかに父さんのドクドクとした命の脈動が感じられた。


 それは、夏に連れて行ってくれたキャンプや、煙草臭い車や、褒めてくれたテストの点数だった。


 ぼくたち親子の思い出が、全て、その脈拍に揺れている気がしたのだ。だからぼくは痛いと怒ってほしくて、血管に爪を立てた。しかし、どれだけ待っても反応は無い。それどころか、眉一つしかめなかった。


 途端に気が挫けて、涙が滲んだ。


 雨滴の伝う窓硝子が寂しかった。徐々に弱まっていく脈拍を「これでもか」と告げてくる意地悪な心電図が恨めしかった。人間として機能していない証拠であるチューブが、力を込めたせいで白くなっている自分の指先が、もう途方もなく虚しかった。


 自分に命を授けてくれた人が、どうしてこんな惨めに死んでいかなくちゃいけないんだろう。


 声を上げて窓を叩き割りたいと思った瞬間、不思議なことが起きた。

 ぼくは驚いて思わず手を緩める。お母さんも「あっ」と声を上げた。


 ここ最近ずっと眠り続けていたお父さんの目が、月が満ちていくように、ゆっくりと開かれたのだ。


 そうして、色褪せた硝子玉のような瞳で、まっすぐぼくを見つめはじめる。……。

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